あなたは最後の将軍・徳川慶喜が、どんな人だったか知っていますか?
近年になって、「徳川慶喜が成し遂げた功績は非常に大きいものだった」という見方が、広まってきています。
歴史の授業では見えてこない、慶喜の「ほんとうの姿」とは、どんなものだったのでしょうか。
今回は、徳川家康との共通点や、近年の評価などから、慶喜がどんな将軍だったのかを読み解きます。
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目次
徳川慶喜と徳川家康の関係や共通点
徳川慶喜は、その明晰さから「徳川家康の再来」といわれ、畏れられていました。
慶喜と家康に共通点はあったのでしょうか。
徳川家の将軍
まずは、同じ徳川家であり将軍となったことでしょう。
ただ、江戸幕府を「開いた家康」と「閉じた慶喜」は通ずるものがないようにも思えます。
相容れないとも思える二人ですが、視点を変えればおもしろい共通点が見えてきます。
二人とも「新しい時代の開幕」に大きく寄与した人物である、という点です。
家康が江戸幕府を開いてから、なんと260年以上ものあいだ、同じ政権が維持されたのです。
これは日本という国の発展に大きく影響しました。
平和な世が続けば、産業も文化も発展しやすくなります。
また、慶喜が1867年に大政奉還をおこなったことによって、幕末から始まる近代国家への歩みは、大きく前進しました。
260年ものあいだ続いた政権を、内乱もなしに終わらせるのは凄まじい功績です。
これによって日本は外国に弱みを見せることなく、明治時代へと移行していくことができました。
当時の時代としては長寿だった
その他の共通点として、長寿だったことも挙げられます。
家康は享年73歳、慶喜は享年76歳といわれています。
家康の生きていたころの平均寿命は45歳ほどだったそうなので、驚異的な寿命です。
また、慶喜は歴代徳川将軍のなかで、最も長寿であったとされています。
名刀・本庄正宗を愛刀としていた
名刀及び宝刀である「本庄正宗」を愛刀としていたことも共通しています。
この刀はその他にも、豊臣秀吉や島津義弘が使用していたとされる名刀です。
家康が使っていた後、4代目将軍の徳川家綱が始まりで、徳川将軍家が代々受け継ぐようになりました。
昭和初期に国宝に指定されますが、いまだ行方のわからない幻の一振りでもあります。
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徳川慶喜の将軍としての器
征夷大将軍には二つの資質が必要です。
一つは「武士」としての資質、もう一つは「政治家」としての資質です。
将軍とは、いわば「全国の武士のトップ」です。
勇敢であり武芸に秀でていることも重要となります。
そのうえ、政治の実権を一人で握る胆力と聡明さも、兼ね備えていなくてはなりません。
はたして徳川慶喜は、将軍としてふさわしい人物だったのでしょうか。
徳川慶喜が征夷大将軍となったのは、1866年のことです。
しかし、それに至るまでに2度もチャンスを逃しています。
一度目は13代目将軍徳川家定のとき、二度目は14代目将軍徳川家茂のときです。血筋や跡継ぎ闘争に敗れたことなどが主な要因となり、結局15代目将軍の座に就いたのでした。
ただ、将軍になる前から積極的に政治に参加しており、その才能を遺憾なく発揮しています。
将軍後見人であったころに行った、京都守護職の設置や参勤交代制度の緩和は、大きな成果をあげています。
また、徳川慶喜は禁裏守衛総督にも就任しており、禁門の変では陣頭に立って勇敢に戦いました。
武士としての強さと勇敢さも兼ね備えていたわけです。
そしてやはり、最も大きな功績といえば「大政奉還」と「江戸城無血開城」でしょう。
大政奉還とは、それまで徳川幕府にあった政権を、京都の天皇に返上するというものです。
これによって、討幕派の諸侯は大義名分を失い、内乱に発展することはありませんでした。
江戸城無血開城とは、それまで政治の中心だった江戸城を戦うことなく明け渡すことで、徳川政権に終止符を打った、決定的な事件です。
当時、城下町には多くの市民が暮らしており、そのまま戦いに発展していれば、多くの被害がでていたと考えられています。
市民のことを考えつつも、大胆な改革で近代化の足掛かりをつくった徳川慶喜。
武士としても、政治家としても、非凡な才能を持ち合わせていたようです。
徳川慶喜の評価
そんな徳川慶喜の評価ですが、実はいいものばかりではありません。
さきほど紹介したように、「大きな功績を遺した名君であった」と評価され始めたのは最近の話です。
元々の低い評価の根拠としてあげられるのが、「鳥羽伏見の戦い」で慶喜がとった行動です。
維新側である薩長連合と、旧幕府軍の「世紀の内戦」である戊辰戦争。
なかでも、とくに有名な鳥羽・伏見の戦いにおいて、徳川慶喜は武士としてあるまじき行為をしてしまいます。
それが「敵前逃亡」です。
旧幕府軍の劣勢という状況で、側近や近しい人間だけをつれて、戦場から江戸へ逃げ帰ったのです。
そのまま旧幕府軍は敗戦、旧体制が瓦解していきます。
この行為は、後世まで語り継がれる汚点となりました。
この出来事が、徳川慶喜についての評価が分かれている、大きな要因のひとつです。
まとめ
武士として勇猛果敢に戦った史実が残りながらも、唯一の汚点を最重要ともいえる戦場で残してしまったこと。
政治家としては名君であり「家康の再来」と呼ばれるほどだったことも。
様々な視点から見える徳川慶喜の人物像は、現代においても賛否両論を巻き起こしています。
ここまで様々な出来事を紹介してきました。
しかし実は、徳川慶喜の将軍在職期間は、「たったの一年」でした。
わずかの現役期間で、多くの人の記憶に残り続けた、15代目将軍「徳川慶喜」。
あなたは、彼をどう評価しますか?
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