北条政子の別姓や本名は?生い立ちや経歴と性格についても

北条政子は鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の正室であり、そして頼朝死後は「尼将軍」と呼ばれ幕政を動かす中心となった人です。

大河ドラマでは1970年の「北条政子」や1979年の「草燃える」で登場し、2022年の「鎌倉殿の13人」でも小池栄子さんが演じることになっています。

そんな有名な人物ですが、実は「政子」という人物は歴史に存在しなかった…と言ったらみなさんはどう思われますか?

政子の生い立ちや人物の紹介とともに、その名前についてもお伝えしていきたいと思います。

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目次

北条政子の生い立ちや経歴

政子が幼少期の記録はほとんどなく、彼女が歴史の表舞台に登場するのは頼朝と婚姻してからとなります。

その後、鎌倉に武家政権を確立した頼朝「鎌倉殿」と呼ばれるようになり、正室であった政子「御台所」と呼ばれるようになりました。

その頼朝が亡くなり頼家が後を継ぐと、政子は出家して尼となり「尼御台」と呼ばれるようになります。

頼家の政治手法に不満が高まり御家人による合議制が始まりますが、頼家と家臣たちの溝は深まってゆくばかりでした。

頼家は比企能員を重んじるようになり、これは北条氏にとって問題でした。

やがて頼家が病で危篤に陥ったとき、政子は父時政と協力し実朝を3代将軍にする画策し比企氏を滅ぼします。

病状から回復した頼家は時政追討を命じますが、逆に政子により出家させられ伊豆に幽閉となりました。

時政は実朝を廃し新たな将軍を立てようとしますが、政子は弟の義時と協力し父を追放します。

公家政権との融和など実直な政治を進めていた実朝ですが、頼家の子であった公暁に暗殺されてしまいます。

この事態を受けて政子は公家政権と交渉し、摂関家から三寅(藤原頼経)を次期将軍として鎌倉に迎えます。

この時三寅はまだ2歳であり、後見人となった政子が将軍の代行をすることとなります。

これにより政子は「尼将軍」と呼ばれるようになり、彼女が亡くなるまでその立場を守り続けました。

北条政子の性格

頼朝の死後自ら幕政を動かし政敵を排除する手腕から、政子が優れた人物であることをうかがい知ることができます。

承久の乱において上皇と戦うことに恐れを感じた武士たちに檄を飛ばし鼓舞する、そんな勇猛な一面も持ち合わせていました。

しかし時には実の父や息子をも幽閉するほどの行為から、恐ろしい側面を持つ人物でもあったのかと想像できます。

その一方で政子は頼朝に対してはかなり一途であり情熱的であったようです。

政子と頼朝の婚姻に父の時政は当初は反対していました。

このため政子は平家一門で伊豆の目代であった山木兼隆に輿入れさせられてしまいました。

しかしそれを嫌がった政子は山木邸を抜け出し、山を越えて頼朝の元に戻ったと伝えられています。

ほかにも政子がふたり目の子ども(頼家)を妊娠した時、頼朝は亀の前という妾を作って通うようになります。

血筋を絶やさぬように何人か妾を持つのが、頼朝のような貴人とっては慣例であったのですが、政子はそれを許さず亀の前を匿っていた伏見広綱の館を破壊させ流罪とさせました。

政子の気性の激しさ、嫉妬深さをうかがい知ることのできる逸話ですね。

しかし地方豪族の娘である政子と高貴な家柄の頼朝では、身分違いの婚姻であり正室として立場も危ういものがあったと考えられます。

このため政子がその立場を脅かすものに、格段に神経を尖らせていたとしても無理はないと思います。

北条政子の別名は本名は?

さて、最初にお伝えした「政子という人物は歴史に存在しなかった」というお話についてご紹介したいと思います。

政子の幼名は「万寿」もしくは「朝日」であったとされていますが、実際のところは分かっていません。

それどころか「政子」という名前ですら、本名ではないと考えられています。

実はこの「政子」という名前は朝廷が官位を授ける際に文書に記したもので、それを後世の人間が使ったことで一般化したものです。

それも父親が「時政」であったため、その一字に「子」を当てただけというかなり安易なものです。

当時の女性は実名を名乗らないのが常識とされており、「清少納言」のように本名が伝わらないのが通常となっています。

このため当時は「政子」という人は、尼御台所と呼ばれるのが一般的であったと考えられています。

平安時代中期まで高貴な家の正室は「北政所」と呼ばれていましたが、ある時から摂政や関白の正室の呼び名とされることが決まりました。

(豊臣秀吉の妻おねが北政所と呼ばれたのはこのため。)以後、それ以外の家で正室は「御台盤所」や「御台」と呼ばれ、その慣例で政子も呼ばれていたということです。

果たして政子の本名は何だったのでしょう?

「鎌倉殿の13人」の主人公である弟の義時は知っていたのでしょうか?

夫である頼朝は公の場以外ではその名を呼んでいたのでしょうか?

今やそれを知る術はありませんが、興味の尽きない所ですね。

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まとめ

北条政子の人となりについてご紹介いたしました。

かなり情熱的な性格であり積極的に政務に取り組む、そんな人物像が見えてきたのではないでしょうか?

興味を持っていただいて、「鎌倉殿の13人」での彼女の活躍ぶりに注目していただけたら幸いです。

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