あなたは平岡円四郎という人物を知っていますか?
15代将軍徳川慶喜を擁した幕末の一橋家にとって、平岡円四郎は非常に重要な人物でした。
また、渋沢栄一との関係性も深く、その登用に大きく貢献したことでも知られています。
今回はそんな平岡円四郎の生い立ちや能力などについて、詳しくご紹介します。
一橋慶喜の陰の立役者は、一体どのような人物だったのでしょうか。
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目次
平岡円四郎と渋沢栄一の関係
まずは、渋沢栄一との関係について説明します。
渋沢栄一と知り合った頃の平岡円四郎はすでに一橋家の家臣であり、慶喜の側近となっていました。
当時の円四郎は有能な家臣を求めて、人材を探し回っていました。
栄一と出会い、非常に優秀で気骨のある人物であることを見抜いた円四郎は、そのまま家臣へと引き抜こうとします。
しかし、当時の栄一は尊王攘夷思想に傾倒しており、クーデターを企てている最中でした。
当然、幕府側の名家である一橋家に仕えるはずなどありません。
ただ、なにかあったときに平岡円四郎の家来となれるのは大きな保険になったようです。
その後、栄一たちのクーデターは未遂に終わり、彼らは身の安全を確保するために京都へ逃避することになります。
そのときに頼りにしたのが平岡円四郎です。
栄一は自然な流れで一橋家の家臣となり、その後に大出世を果たすこととなります。
日本資本主義の父とまで呼ばれる渋沢栄一の活躍の始まりには、平岡円四郎の後押しが大きく貢献していたというわけです。
平岡円四郎の生い立ち
1822年、平岡円四郎は旗本である岡本忠次郎の四男として生まれました。
その後、平岡文次郎の養子となり、姓が平岡となります。
幼いころから優秀で聡明だった円四郎は、藤田東湖や川路聖謨から推挙され小姓として一橋家に入ります。
生涯にわたって仕えることになる後の将軍、一橋慶喜とはこの時に出会っています。
その後の円四郎の行動は、常に一橋家及び一橋慶喜と共にあります。
慶喜からの信任も厚く、人材登用などにおいては多くの貢献を一橋家にもたらしました。
また徳川家定との将軍継嗣問題の際には、慶喜を将軍にと奔走しますが報われず。
さらに安政の大獄では、大老である井伊直弼に小十人組へと左遷されられることになります。
このときに一度、一橋家から離れることになりました。
1862年、徳川慶喜が将軍後見職に就任すると、江戸へと戻ります。
そのまま一橋家に復帰し活動を再開。
公武合体派の中心となった慶喜に仕え、上洛にも同行します。
その後、慶喜から一橋家家老並に任命されます。
幼少のころからの家臣が少なかった慶喜にとって、関係性も深く信頼のおける家臣であった平岡円四郎の存在は貴重だったということでしょう。
また同時期に、近江守にも就任しています。
その後、水戸藩士である江幡広光と林忠五郎に暗殺されるまで、一橋家の家臣として活躍しました。
幕末の偉人である徳川慶喜の功績の陰には、平岡円四郎という部下の多大なる貢献があったというわけです。
平岡円四郎の一橋家家老としての能力や才能
ここからは平岡円四郎の能力について、ご紹介します。
そもそも円四郎が一橋家に入ることになったきっかけは、藤田東湖や川路聖謨の推挙によるものだとされています。
藤田東湖と川路聖謨は、両者ともに才人として知られており、非常に優れた政治家でもありました。
この二人から推される円四郎は、幼少のころから非凡な才覚を発揮していたと予想できます。
また、渋沢栄一を登用したことも円四郎の大きな功績です。
一橋家にとってはもちろんですが、近代日本経済にとっても大きな転機となりました。
農民出身の栄一のことを侮らず、その才能を見抜いた円四郎は、柔軟な姿勢と人を見る目を併せ持っていたと言えます。
そんな円四郎の能力ついて、渋沢栄一が語った一節がありましたので、現代的な言葉遣いに訳して紹介します。
平岡円四郎という人は一を聞いて十を知るという才を持っていて、客が来るとその顔色を見ただけで、何の用事で来たのかを察するほどのものであった。しかし、このような才を持つ人は、前途が見えすぎるあまり、他人の先回りばかりすることになるので、自然と他人には嫌われ、往々にして非業の最期を遂げたりするものである。平岡が水戸藩士に暗殺されてしまうことになったのも、一を聞いて十を知る能力にまかせて、他人の先回りばかりした結果ではなかろうかとも思う。
この記述からもわかる通り、円四郎は他人の考えや性質を見透かす能力に長けていたことがわかります。
円四郎のことを推す人々の並びを見れば、突出した能力を有していたことは明らかでしょう。
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まとめ
今回は平岡円四郎について、その生い立ちや能力にも言及しながらご紹介してきました。
渋沢栄一を世に送り出した最初の人物には、大変優秀な能力があったことがわかりますね。
時代の寵児たちが活躍する陰には、こうした有能な部下たちの貢献があったわけです。
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