渋沢栄一と勝海舟の関係は?徳川慶喜を慕うがお互いは嫌いだった?

NHK大河ドラマ『青天を衝け』で吉沢亮さんが演じる主人公、渋沢栄一

日本近代化の父として名高い人物です。

一方、幕末志士として名を馳せ、歴史ファンの中でも人気の高い勝海舟

『青天を衝け』で勝海舟役をどなたが演じられるのか、楽しみなところです。

そんな二人は、お互いに思想が合わなかったとも言われています。今回は渋沢栄一と勝海舟をクローズアップし、彼らの関係性について紐解いていきたいと思います。

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目次

渋沢栄一と勝海舟の関係

渋沢栄一と勝海舟、元々二人は仲が悪かったと言われています。

勝海舟は渋沢栄一よりもニ十歳近く年上でしたが、性格的には二人とも自信家だったと言われています。

そして、渋沢栄一は徳川家を存続させた勝海舟の功績を高く評価していましたが、実際に会うと勝海舟に「小僧」と扱われてしまっていたそうです。

勝海舟から見て渋沢栄一がどう映っていたのかは分かりませんが、逆に渋沢栄一からは、維新三傑(西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允)と比べ、勝海舟を「人を動かせる器ではなく、リーダーとしての素質を備えていない」と低く評価しています。

この背景には、渋沢栄一が「小僧」として扱われたことと、彼が慕っていた徳川慶喜を大政奉還後に静岡に封じ込めた勝海舟の姿勢がありました

この江戸から明治へと変わる激動の時代の中心にいた15代将軍・徳川慶喜こそ、二人の関係を表す上で欠かせないキーパーソンなのです。

徳川慶喜を慕う二人


仲が悪いと言われる渋沢栄一と勝海舟ですが、二人には共通点がありました。

それは、15代将軍・徳川慶喜を慕っていた点です。

徳川慶喜は1867年に大政奉還を行ない、江戸から明治への時代の変わり目を作った人物です。

勝海舟は1863年に大坂湾の海防を強化するため、神戸海軍操練所の創設するという構想を14代将軍・徳川家茂に打ち明け、了承されます。

徳川家茂の英断に対し感激し讃え続けた勝海舟でしたが、状況は一転。

1867年に15代将軍・徳川慶喜になり、長州藩との停戦交渉や敗戦処理に顔の広さを利用され、その任務が終わると役目が終わったと冷や飯を食わされます。

また、江戸開城の際に自分の交渉術を叱責されたこともあったそうです。

巧みな交渉術を持ち、江戸無血開城の立役者として名高い勝海舟でしたが、自信家でもありましたので、この徳川慶喜からの処遇に彼は不信感が募っていきました。

しかし、後述しますが、やがて勝海舟は慶喜を慕うようになっていきます

一方で、勝海舟と同時期にフランスに渡欧する機会を与えられた渋沢栄一は、徳川慶喜に対して感謝の念を抱いていました

徳川慶喜に対して真逆の感情を抱いていた二人は、戊辰戦争が終わった1869年に初めて出会います。

その頃、勝海舟は敵方の西郷とともに、江戸開城の立役者として世間に知れ渡っていました。

一方で、栄一も尊王攘夷の志士でしたが、勝海舟とは段違いに違ったため、先述したように「小僧」扱いされることも多くありました。

これが渋沢栄一と勝海舟の対立につながっていったと言われています。

渋沢栄一と勝海舟はお互いが嫌いだった?

渋沢栄一と勝海舟は1871年の廃藩置県の前後で明治政府入りをしますが、その期間は短く、渋沢栄一は3年程、勝海舟も2年程だったと言われています。

その後、渋沢栄一は実業家として日本の近代産業を広め、一方の勝海舟も政界の御意見番として、明治政府を批判しながら枢密院(天皇の諮問機関)の顧問官となります。

そして、渋沢栄一と勝海舟は、それぞれ旧幕臣として徳川家の復権を支えていきます。

渋沢栄一は静岡藩の財政再建に注力し、一方の勝海舟も明治政府と静岡藩の間に立ち、両者の関係が円滑になるように努めました。

しかし、この静岡藩時代から、二人の関係は悪化していきます。

明治政府は徳川家に爵位を与えて華族としますが、徳川慶喜には爵位が与えられず、静岡での謹慎生活が続きます。

慶喜に対して思慕の年を抱いていた渋沢栄一は、彼を再び世に送り出そうとしますが、そこに勝海舟が関わってきます。

勝海舟はもともと徳川慶喜を静岡藩で謹慎させていましたが、やがて慶喜の助命や謹慎解除に動くようになっていきました。

慶喜も東京へ転居し、皇居で明治天皇と慶喜の対面を実現させ、慶喜は再び世に出ていくこととなります。

そして1899年、勝海舟は77歳でこの世を去ります。

勝海舟が去った後は、何と渋沢栄一が勝海舟の遺志を受け継ぎ、慶喜の復権に奮闘していったと言われています。

反りが合わなかったと言われる二人が、時代の流れに合わせて、結果的に同じ方向に向かって歩んでいくことになったのは、偶然ではなく必然だったのかもしれません。

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まとめ

今回は渋沢栄一と勝海舟の関係性についてご紹介しました。

日本近代化の父とも崇められる渋沢栄一ですが、勝海舟に「小僧」扱いをされたことが本人にとって気に食わなかったというのは、何とも人間らしいエピソードのように感じられます

また、二人の関係だけでなく、徳川慶喜も含めた三角関係を見ることで、それぞれの人物像が生き生きと浮かび上がってくるのは、とても興味深いです。

誰一人欠けても、渋沢栄一や勝海舟の良さは発揮されず、幕末から明治にかけての近代化は進まなかったのかもしれません。

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