西郷隆盛はどんな人で何をした人?業績の簡単まとめと西南戦争を起こした理由も

幕末に活躍した薩摩藩の武士であり、明治維新を成し遂げた「西郷隆盛」

鹿児島のヒーローとして、「西郷どん」との愛称で現代でも愛される彼は、一体どんな人物だったのでしょうか。

この記事では隆盛が何をして、どのような業績を残したのかについてご紹介するとともに、西南戦争を起こした理由についても簡単に解説します。

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目次

西郷隆盛はどんな人で何をした人

出典:Wikipedia

西郷隆盛 (さいごうたかもり)

・1827年~1877年

・薩摩藩士であり軍人、政治家

・愛称:西郷どん

 

隆盛は、1827年に薩摩藩の下級武士の長男として生まれました。

下級武士の出身でしたが藩主である島津斉彬の目に留まり、1854年に共に江戸に渡りました。

才能を認められた隆盛は、側近として活躍。

順調に見えましたが、斉彬が亡くなったことによって失脚し、奄美に島流しに合ってしまいます。

悲劇は続き、薩摩に戻ってからも新藩主の父親で実質の最高権力者であった島津久光と折りが合わず再度流罪に合ってしまいました。

 

1864年に復帰してからは薩長同盟の締結王政復古に成功し、戊辰戦争を主導

江戸総攻撃を目前に、勝海舟との話し合いにて江戸城の無血開城をさせました。

無血開城
戦闘を行わず、幕府が新政府側に城を明け渡すこと

 

その後は一度薩摩に戻るものの、1871年に新政府で参議として復帰します。

しかし板垣退助らと「征韓論」を唱えたことで、岩倉具視や大久保利通らの反対を受けて参議を辞職しました。

征韓論
朝鮮を武力で従わせようという主張

 

再び薩摩に戻った隆盛は、縦隊学校と砲隊学校から成る私学校を設立し、教育に専念します。

当時は士族の反乱が続いており、私学校の生徒も暴動を起こすようになりました。

そこで隆盛は若者たちのリーダーとなって西南戦争を起こし、指導者となりましたが、結果は敗北。

隆盛は城山で自決し、49才でこの世を去りました。

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業績や功績の簡単まとめ

倒幕に大きく尽力した指導者

出典:Wikipedia

1864年に薩摩に戻った隆盛は、倒幕派として大久保利通らとともに活躍を始めました。

まず初めに、長州藩と手を結ぼうと画策します。

もとは薩摩藩と敵対していましたが、長州藩は攘夷を目論んでいると幕府から危険視されていました。

隆盛たちの一番の目的は幕府を倒すこと。

そうなれば敵の敵は味方です。

長州藩と同盟を組むことで、幕府と戦う力と軍備の増強が見込めると考えました。

1866年に坂本竜馬や中岡慎太郎の斡旋もあり、薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允の間で薩長同盟が結ばれたのでした。

これを皮切りに大きく討幕へ動きが進んだと言える出来事でしょう。

 

江戸城無血開城を成功

江戸城の無血開城は、幕府側の責任者・勝海舟と新政府側の西郷隆盛の間で行われた会談により、武力行使なく江戸城が新政府側に明け渡されたという出来事です。

これは徳川家による日本の支配が終わったことを意味します。

実はこのとき、新政府軍は京を出発し、江戸への総攻撃を始めようとどんどん進軍していました。

もし会談が失敗し、お互いが武力で解決しようとしたならば江戸の町は戦火に飲み込まれ、大勢の犠牲が出ていたことは間違いありません。

しかもこの時代は、諸外国が大きな脅威でした。

江戸で大きな戦争があれば、スキをついて外国からの侵攻が行われていたかもしれません。

江戸の市民を戦争に巻き込むことなく、話し合いでの解決に終わったこの出来事によって、勝海舟は隆盛のことを「江戸の大恩人」と称しています。

多くの江戸市民を救ったこの出来事は、隆盛の評価できる功績だと言えるでしょう。

 

西南戦争を起こした理由を簡単に解説

西南戦争とは、士族反乱のなかでも最も最大のもので日本国内で最後の内戦です。

なぜ起こったのか理由を簡単に3つにまとめるとこうなります。

①明治維新後、士族達は特権を次々と奪われたため不満が高まっていた

②明治政府が、鹿児島に保管していた兵器・弾薬の一部を大阪へ勝手に運んだことで士族の怒りを買った
(これらは薩摩藩士たちが購入したり製造したものだった)

③川路利良らが送り込んできたスパイが、隆盛の暗殺を命じられていたことを知り、隆盛を尊敬する者たちが大激怒した

 

以上の点が重なり、私学校に通う士族達は政府の火薬庫を襲撃し、武器などを奪うという暴動が起こりました。

薩摩の武士たちからすれば、薩摩のスターである隆盛を暗殺しようとするなど言語道断。

絶対に許せないことだったのでしょう。

本当は戦争などする気も無かった隆盛でしたが、もう高ぶった士族たちを抑えることはできません。

もはや後戻りできないと悟った隆盛は、挙兵を認め、指導者となったのでした。

隆盛はこのとき、自分の死を悟り、最期を捧げるつもりで戦ったのでしょう。

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まとめ

幕末から明治維新と大活躍し、鹿児島のスターとなった「西郷隆盛」。

当時から現代まで変わらず愛されるのは、実力があっただけでなく人望も兼ね備えた人物だったことがうかがえますね。

西南戦争は隆盛にとって死を覚悟での挙兵であったのに、なぜ・・・とも疑問が湧きますが、きっと自分のことを想って戦おうとする士族たちに、最期の舞台をあげようと思ったからなのではないでしょうか。

もし西南戦争が無ければ、明治以降の日本はどのように変わっていたのでしょうか。

 

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