渋沢栄一と西郷隆盛の関係は?豚鍋や相談ごとのエピソードについても

500社もの会社の設立に関わり、600近くもの教育機関、病院、各種団体の運営に携わった渋沢栄一

一方、薩摩藩主で38歳の時に薩長同盟を締結し、戊辰戦争の時に勝海舟と相談して、江戸城無血開城を実現した西郷隆盛

そんな日本を代表する偉人の西郷隆盛ですが、実は渋沢栄一とも関係が深く、時には一緒に豚鍋を食べたり、渋沢栄一に叱られるほどの関係だったそうです。

今回は、そんな渋沢栄一と西郷隆盛の関係性について掘り下げていきたいと思います。

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目次

西郷隆盛と渋沢栄一との関係

1827年に薩摩藩で生まれた西郷隆盛。

大久保利通とともに薩摩藩のリーダーとして、倒幕に向けて動きました。

そして先述のように、38歳の時に薩長同盟を締結し、1868年の戊辰戦争では勝海舟とともに江戸無血開城を実現しました。


京都・烏丸今出川 相国寺横の薩摩藩邸跡にて。2021年3月撮影

渋沢栄一が一橋家の御用談所で働いていたこともあり、当時の諸藩と事務的なやり取りをする機会が多くあったそうです。

そのため当時、京都・相国寺のそばに住んでいた西郷隆盛のもとを訪れる機会も多くあり、気がつけば親しい中になっていったそうです

やがて渋沢栄一は平岡円四郎から、西郷隆盛に探りを入れるように命じられます。

渋沢栄一は「上野公園の銅像より若く、太い眉とギロリとした目、力士みたいな身体」と西郷隆盛のことを評していましたが、天下の名高い薩摩藩士ということもあり、二人は話が合ったそうです。

西郷隆盛から当時の政治に対する問題点を聞かれ、渋沢栄一は当時の老中政治への不満や政治の土台から改革する必要があると、意見を述べました

豚鍋を一緒に食べる関係だった!

一橋家という幕府側の人間であるにもかかわらず、京に来た経緯を話して幕府を批判する渋沢栄一の姿勢を、西郷隆盛はたいそう気に入ったそうで、ある時、西郷隆盛が腹が減ったらから晩飯を食べながら話そうということになり、豚鍋を食べながら話す機会があったそうです。

その席で西郷隆盛は、当時の一橋慶喜に対する評価の低さを、渋沢栄一にぶつけます。

すると、渋沢栄一からは「西郷さんが新政府の中心人物になってはどうか」 と、思わぬ返事が返ってきたそうです。

その後渋沢栄一は、一橋慶喜と会った際に、西郷隆盛との話の内容を伝えます。

あの西郷隆盛の評価ですから、一橋慶喜も内容に納得がいき、また慶喜自身の柔軟な性格も相まって、西郷隆盛の意見を呑み込んだそうです。

西郷隆盛はこうした渋沢栄一の事務方としての調整力を気に入り、薩摩藩邸で何度も豚鍋を御馳走される仲になっていったそうです。

西郷隆盛が渋沢栄一に相談にきたエピソード

そして1871年、参議を務めていた西郷隆盛は、相談をするため渋沢栄一の家を訪ねます。

当時の渋沢栄一は、井上馨のもとで「大蔵大丞(おおくらのだいじょう)」の役職にあり、財政の改革に携わっていました。

当時、参議という高い地位で国の中枢を担っていた西郷隆盛が、わざわざ大蔵省の役人である渋沢栄一の元を訪ねた理由は何だったのか?それは「興国安民法」についてでした。

相馬藩(現・福島県)に二宮尊徳が提案した「興国安民法」という財政や産業に関する施策がありましたが、当時、廃藩置県が行なわれる中で、大蔵省ではそれの興国安民法を廃止する議論が行なわれていました。

相馬藩は西郷隆盛に頼み、西郷隆盛が渋沢栄一へ相談をしに来たのです

興国安民法とは収入を前提に支出を考えるもので、当時の大蔵省も渋沢栄一の考え方も、まさに興国安民法と同じ考え方をもっていました。

しかし、西郷隆盛は興国安民法の考え方とは逆に、相馬藩を救うべく、収入を考えずに為政のためのお金を要求したのです

さらに驚くべきことに、西郷隆盛は興国安民法のことを知らずに渋沢栄一の元を訪ねていたのです。

これを聞いた渋沢栄一は驚きを隠せず、興国安民法のことを西郷隆盛に説明します。

国政を担う西郷隆盛が、相馬藩という一藩のためだけに奔走し、相馬藩の面倒をみてほしいという姿は、渋沢栄一の目にはおかしなものだと映ったのでしょう。

理解に苦しむ渋沢栄一の言葉を聞いた西郷隆盛は、頼みごとがあって渋沢栄一の元を訪ねたにも関わらず、渋沢栄一に叱られてしまい、そのまま帰っていったそうです。

ちなみに、この西郷隆盛のエピソードについて、渋沢栄一は「知らないことを素直に知らないと言える豪傑」だと大きく評価し、西郷隆盛に対して尊敬の念を抱いていたのだそうです。

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まとめ

後年、『論語と算盤』を著した渋沢栄一ですが、その『論語』の中に「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す。是れ知るなり」という言葉があります。

これは「知らないことを自覚することが、本当の意味での知ることにつながる」という意味ですが、知らないことを知らないと素直に伝えた西郷隆盛の器の大きさに、渋沢栄一が惚れ込んだのは言うまでもないでしょう。

今回のエピソードは、まさに西郷隆盛の人となりと、渋沢栄一の思想が顕著に表れているエピソードと言えるかもしれません。

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