東京オリンピックが開催される年でもある記念すべき2020年の大河ドラマは『麒麟がくる』です。
明智光秀の生き方を通して、混乱の戦国時代を描いていきます。
今回は、『麒麟がくる』で登場する「お城のロケ地、 撮影地」や「明智光秀のゆかりの地」についてお伝えいたします。
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目次
麒麟がくるのお城のロケ地・撮影地まとめ!
明智光秀(あけちみつひで)が生まれたのは、岐阜県の美濃地方。
明智光秀が織田信長に出会ってからの出来事はきちんとした記録があるのですが、織田信長に会うまでの半生は謎に満ちていて、岐阜県の美濃地方のどこかで生まれたことは確かなのですが、出生地は未だに特定されていないというのが現実です。
明智城(あけちじょう)/岐阜県可児市
室町時代を通して岐阜の美濃地方を国司として統治してきたのは、美濃源氏の流れをくむ美濃の名家 土岐氏(ときし)でした。
明智(あけち)姓は、土岐家の分家であると伝えられており、明智の他にもいくつかの土岐家の分家の姓が美濃地方には今も残っています。
この明智城(岐阜県可児市瀬田)が築かれたのは、1342年で、土岐頼兼(とき よりかね)によってでした。
この明智城は尾根や谷など自然の地形を利用した典型的な山城で、土岐頼兼が築城して以降、約200年に渡って、明智家の居城として栄えていきます。
元々、この城には天守閣はなかったのですが、現在は、明智城址散策道として整備され、春や秋には、多くのハイキング客が訪れる散策コースになっています。
明智光秀が美濃を去るきっかけとなったのが、この明智城の落城のためです。
天龍寺(てんりゅうじ)/岐阜県可児市
明智城跡の近くに建つのが、天龍寺(てんりゅうじ)と言われる曹洞宗のお寺です。
ここは、明智家に縁の深いお寺で明智家代々のお墓があり、日本で一番大きな光秀の位牌もまつられています。
*明智城跡, 天龍寺住所: 岐阜県可児市瀬田
岐阜城=稲葉山城(ぎふじょう=いなばやまじょう)/岐阜県岐阜市
岐阜城は岐阜市の金華山(きんかざん)の頂上に建つ典型的な山城で岐阜市のシンボルでもあります。
岐阜城から四方を見渡すと、長良川がすぐそばに見え南に広がる濃尾平野が一望できます。
岐阜城といえば、すぐに織田信長を思い出す方も少なくないと思いますが、当時、尾張の織田信長のライバルであったのが、美濃でした。
織田信長は美濃の攻略に成功すると、当時同じ場所にあった稲葉山城(いなばやまじょう)を修復し(ほぼ新築し)岐阜城を建てます。
「岐阜」(ぎふ)という地名を名付けたのも織田信長だったと言われています。
織田信長は、勢力を拡げるとともに、尾張の清須城から美濃の岐阜城、 滋賀の安土城へと居城を移し、京の都に近づいていったのです。
明智光秀を語る上で、絶対外せないのが織田信長。
織田信長は、岐阜城を居城にしていた時期があったのです。
岐阜城住所:岐阜市金華山天守閣18 金華山頂
「岐阜市 岐阜城」https://www.city.gifu.lg.jp/3537.htm
明知城(あけちじょう)/岐阜県恵那市
岐阜には、「あけちじょう」と名付けられた城が二つありました。
ひとつは上でご紹介した「智」の字がつく、可児市の明智城、別名が、長山城(ながやまじょう)。
もうひとつは、「知」の字がつく、恵那市の明知城です。
別名は、白鷹城(しらたかじょう)。
岐阜県の可児市でも、恵那市でも自分の市にある「あけちじょう」こそが明智光秀の生誕の地であると主張しています。
それぞれの主張には、根拠があるのですが、実際には光秀の生誕地はわかっていません。
他にも大垣市なども光秀の生誕地として名乗りをあげています。
どこの地方自治体でも、ご当地ヒーローである明智光秀のイベントが開かれ盛り上がっています。
話がちょっと脇にそれましたが、明知城は標高530メートルの山に築かれた平山城(ひらやまじろ)で、土で盛り上げて作られた保塁(ほるい)(小型の要塞)が大小20か所以上あり、今でも原型が残っています。
そして、県の指定文化財になっています。
源頼朝の時代以来、遠山家の治める地でしたが、交通の要衝になっている場所でもあり度々争いの場所にもなっています。
戦国時代には、武田信玄の家臣秋山虎繁、織田家織田信忠、豊臣家に制圧されたこともありました。
時代劇でも有名な遠山の金さん(遠山金四郎)は、この明知城を統治していた遠山家出身であるという設定になっています。
*明知城住所:岐阜県恵那市明智町城山1318-1
坂本城(さかもとじょう)/滋賀県大津市
明智光秀は、城の設計にも長けており、柔軟な発想で各地に名城と呼ばれる城をいくつも建ててきました。
その一つが、滋賀県坂本、 現在の大津市に建てた坂本城です。
この坂本城は、織田信長の比叡山の焼き討ち後の1571年に建てられたものです。
坂本の地は、当時、岐阜城に住んでいた織田信長と京都の間にある重要拠点であり、朝倉, 浅井勢の南下を防ぐためにも必要な城でした。
現存していませんが、琵琶湖沿いに建てられた坂本城の美しさは、当時多くの人々に知られていました。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスによれば、「織田信長が築いた安土城に次ぐ豪壮華麗の城」と言っています。
安土城がこの坂本城をモデルとして作られたという説もあるほどです。
*坂本城址公園住所:滋賀県大津市下阪本3丁目1
明智光秀のゆかりの地について
明智光秀が織田信長の家臣になる前
美濃にいた時代、土岐家の分家である明智家で育った光秀は青春時代を美濃、現在の岐阜県の南部で過ごします。
斎藤道三からも卓越した武芸が認められ、美濃で武将として着実に実力をつけていきます。
しかし、事件が起こります。
明智光秀が美濃を去らなければならなかった理由
土岐家の中でも斎藤道三(さいとうどうさん)派閥についていた明智家でしたが、道三が家督を息子の斎藤義龍(さいとうよしたつ)に譲ると、義龍は反乱を起こし、道三は敗れ討ち死にします。
そして、明智城に籠城していた明智家も義龍に攻められ、一族のほとんどが討ち死にする中、明智光秀は叔父の配慮で逃がされますが、美濃を去らなければならない状況に陥ります。
その後、明智光秀は、越前(福井県)の朝倉義景に鉄砲技術と戦略を認められ、朝倉家に仕官して10年ほど、越前にいたという説が語られていますが、実際のところは確認されていません。
明智光秀が織田信長に出会って以降は?
明智光秀の織田家への貢献度は家中でも一、二位を争うものでしたが、その中でも最も大きな貢献は、やはり、織田家と将軍家である足利家を結び付け、足利義昭(あしかが よしあき)を第15代将軍に就任させ、織田信長が上洛できるように交渉にあたり段取りしたことでしょう。
織田信長が全国統一を達成する上で、障害になったのは戦国大名だけではありませんでした。
一向宗や比叡山延暦寺などもありました。
織田信長が全国統一を達成するには、岐阜から京の都への地域を安定させることが必須でした。
その役目を任されたのが明智光秀であり、延暦寺ににらみを効かすために織田信長は明智光秀を琵琶湖畔の坂本城に配置します。
ですから、明智光秀のゆかりの地というのは、岐阜から京都まで、具体的に言うと、岐阜県、 滋賀県、 京都府にゆかりの地が多いのです。
明智光秀が主役の大河ドラマにと誘致し続けてきた地方自治体
今回の大河ドラマは、大河ドラマ史上, 第59作目の作品となりますが、明智光秀を主人公としたドラマとしては今回が初めてになります。
織田信長や豊臣秀吉を主役にした大河ドラマはいくつもあるのですが。
やはり、「本能寺の変」を起こした明智光秀は、反逆者として世の中の多くの人に理解されているため、今までドラマ化されなかったのだと思うのですが、その一方で、明智光秀ゆかりの地である地方自治体からは「是非とも明智光秀を主役のドラマを制作して欲しい。」とのラブコールが長い間、NHKなどに投げかけられてきました。
明智光秀の生まれ故郷である岐阜県内のいくつかの市町村ももちろんですが、「坂本城」があった滋賀県の大津市や、「亀山城」や「福知山城」のある京都府の亀岡市や福知山市などが数年をかけて誘致活動を行ってきました。
10年も誘致を訴えてきた地方自治体もあります。
今回のドラマが制作されることになった背景において、明智光秀ゆかりの様々の地域の誘致活動があったことは間違いありません。
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まとめ
現在の岐阜県南部で生まれた明智光秀は、青春時代を岐阜で過ごし、信長の家臣になってからは、岐阜県から京都の間、 具体的には、岐阜県、 滋賀県、 京都府を舞台に活躍しました。
そのため、これらの地域が撮影地として選ばれ、ロケに使われるケースが多く見られます。
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