三淵藤英の経歴や能力は?細川藤孝との関係や決別の理由を考察

三淵藤英と聞いてピンとくる人は少ないのではないでしょうか。

三淵藤英は足利義輝や義昭に仕えた幕臣の一人です。

弟・細川藤孝は有名ですが、兄の三淵藤英はあまり有名な武将ではありません。

目立った功績もないからか残されている史料が少なく、不明な部分も多いです。

ですが調べていくと室町幕府を裏で支えた武将の1人で、有名な武将との絡みも多いことがわかりました。

大河ドラマ「麒麟がくる」では俳優の谷原章介さんが演じられ登場回数も多いことから、今後の物語に絡んでくる重要人物と言えそうです。

今回はそんな三淵藤英の経歴や能力、弟の細川藤孝との関係などを書いていきます。

スポンサーリンク

三淵藤英の経歴と能力

三淵藤英の経歴

三淵藤英は室町幕府の将軍の奉公衆であった三淵晴員の嫡男として生まれます。

藤英は生まれながらに約束された幕府のエリート官僚の道を歩みます

ちなみに奉公衆とは足利将軍直属の部隊のことで、将軍そのものの軍事力として機能する側近のことです。

奉行衆は幕府の文官の官僚なのに対して、奉公衆は軍事官僚という存在でした。

三淵藤英の青年期の史料はないのでどんな青年期を過ごしたかは不明ですが、1540年頃から室町幕府の奉公衆として働き始めていたようです。

ですがこの時の将軍・足利義輝は幕府の将軍でありながら、権力を持った武将に本拠地である京を追い出されては戻るの繰り返し・・・と言う屈辱を味わっていました。

三淵藤英はそんな義輝を支え、弟の細川藤孝とともに室町幕府再興に尽力した人物です。

ようやく義輝が京へ戻り幕府復興へ動いていた時、永禄の変という事件が起こります。

永禄の変は京で実権を握っていた三好三人衆に足利義輝が暗殺されてしまう事件です。

この事件では義輝だけでなく家族も殺害されたり自害に追い込まれたりしました。

 

弟の覚慶こと足利義昭は京都の興福寺に幽閉され、2か月ほど軟禁生活を強いられます。

三淵藤英は弟の細川藤孝とともに足利義昭を興福寺から救出します。

そして殺害された足利義輝に代わり義昭を将軍に就任させて幕府を復興させるため、藤英と足利義昭と細川藤孝は各地の大名のもとを転々とします。

越前へ流れ着いた3人は明智光秀と出会い、光秀を通して織田信長を頼り、尾張国へと移ります。

そして織田信長の働きかけのおかげで上洛し足利義昭は将軍に任命します。

足利義昭が将軍に就任した後、藤英は京都の伏見城あたりの警固を行っていたと言われています。

その後、足利義昭に重用され大和守に任命され、幕府復興に力を注ぎます。

 

最初は仲のよかった足利義昭と織田信長ですが、徐々に対立していき、ついに戦になります。

そして1573年に足利義昭は織田信長討伐に向けて出陣します。

三淵藤英は出陣して主のいなくなった二条城の守備にあたりました。

しかし二条城は織田軍に包囲されてしまい劣勢な状態に。

しかも足利側にいた家臣たちが次々と城から脱出し織田軍に降伏してしまいます。

藤英は寝返ることなく二条城に残り戦い続けますが、柴田勝家に説得され織田軍に降伏しました。

仕えていた義昭も降参し京から追放され、室町幕府は滅亡しました。

主を失った三淵藤英はその後、織田信長に仕えるのですが信長に今まで味方だった岩成友通を攻めるよう言い渡されます。

ですがここはきっちり役目を果たし見事岩成友通を討ち取ります。

そしてその後織田信長の命で切腹を強いられ三淵藤英は自害します。

ここまでが三淵藤英の経歴です。

三淵藤英の能力

三淵藤英は室町幕府の中で奉公衆という将軍そのものの軍事力として機能する側近の仕事をしていました。

先にも書きましたが奉公衆は将軍や御所を守る人たちのことです。

現代の警備員やSPのような役割です。

三淵藤英の場合、足利義昭が将軍の時は書類の発給や取次などの実務をこなしながら戦にも出て幕府の軍事力として働いていました。

つまり事務的な業務もでき、武芸にも優れていたと言えます。

三淵藤英は弟の藤孝同様、文武両道だったと思われます。

細川藤孝と関係

細川藤孝は三淵藤英の弟です

三淵藤英は藤孝と一緒に幕臣として幕府を支え続けてきました。

足利義輝が暗殺された後も義昭を将軍へ就任させるために動き続けるなど、いい関係が続いていたように思います。

ですが、足利義昭と織田信長が対立するようになってから藤孝は義昭を裏切り、信長に仕えるようになります。

三淵藤英も細川藤孝は代々将軍に仕える家系でもあるのに、義昭を裏切った藤孝に藤英は激怒します。

そして細川藤孝の居城の勝竜寺城の襲撃計画を企てます。

ですがこの計画は未遂に終わります。

その後義昭が信長に負け、京を追放されると藤英は信長に仕えることになります。

藤英は信長からまだ淀城に籠城していた足利義昭方の岩成友通を攻めるよう命じられます。

これを受け三淵藤英は、再び細川藤孝とタッグを組んでともに淀城を攻撃。

見事岩成友通を討ち取りました。

一度は藤孝を激怒し、別々になった二人ですがここで一緒に戦っていることから仲が悪くなったわけではなさそうですね。

細川藤孝と決別した理由を考察

ここで気になるのがなぜ細川藤孝が織田信長に就くことにしたのか?ということです。

三淵藤英も細川藤孝もきっと安寧な世の中にしたいという想いは一緒だったはず。

だけどその理想を叶えるには足利義昭では無理で信長ならできると判断し、裏切ったのでしょう。

このことから藤孝の合理主義な一面が見えます。

一方で三淵藤英は一度仕えた足利家に忠義を尽くすべきだと考えていたのではないかと思います。

織田方と二条城で戦った際もみな次々と降参する中、藤英だけは一人城に残り続け城を守り続けたエピソードからその様子が読み取れます

二人が決別したのは考え方の違いで、仲が悪くなったわけではないのだと思います。

adsense

スポンサーリンク

まとめ

三淵藤英は地味ながらも室町幕府の復興に動き、足利家への忠義を尽くした人だということがわかりました。

弟の細川藤孝がスーパーヒューマンなのでなかなか注目されることがなかった藤英ですが、藤英がいなければもっと早い段階で室町幕府は滅亡したかもしれません。

縁の下の力持ちという感じでしょうか。

大河ドラマ「麒麟がくる」ではどんな描かれ方をするのか楽しみです。

 

スポンサーリンク

関連記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください