大河ドラマ「麒麟がくる」では谷原章介さんが演じられていて、物語の序盤から弟の細川藤孝と足利義輝の幕臣として登場していました。
ですが歴史上の人物として三淵藤英の存在はあまり知られていないようです。
三淵藤英は将軍・足利家に仕える幕臣です。
永禄の変で足利義輝が暗殺された後も足利義昭を将軍にするよう働きかけるなど、地味ですが足利家を支える重要な人物です。
そんな三淵藤英の最期は謎に包まれています。
そこで今回は三淵藤英の最期はどうだったのかや切腹を命じた織田信長との関係などを深堀していきたいと思います。
目次
三淵藤英の最期は自害!
【キャストビジュアル公開】
三淵藤英(みつぶち・ふじひで)
谷原章介#麒麟がくる pic.twitter.com/fCMkfW8S7V— 【公式】大河ドラマ「麒麟がくる」毎週日曜放送 (@nhk_kirin) December 21, 2019
三淵藤英は将軍・足利義昭に仕える幕臣でした。
最初は仲のよかった織田信長と足利義昭ですが、だんだん仲が悪くなり対立するようになると、家臣が次々と信長に寝返り出します。
三淵藤英の弟・細川藤孝もその一人でした。
ですが三淵藤英は義昭に仕え続けました。
そして織田信長と足利義昭の間で戦が勃発します。
圧倒的劣勢な状況の中、戦で二条城を空けた義昭に代わって城に籠り、最後まで抵抗を続ける藤英ですが柴田勝家の説得により1573年の7月10日に降伏します。
潔く降伏したのが気に入られたのか信長から罰がなかった藤英は二条城を退去し、自身の居城伏見城に移ったと言われています。
その後しばらくして義昭が籠る槇島城も落ち、義昭は京を追放されます。
これで室町幕府は事実上滅亡となります。
藤孝が義昭を裏切って信長についたときには激怒したと言われる藤英ですが、義昭が追放されたのをきっかけに信長に仕えることを決断します。
信長に仕えた藤英は弟の藤孝と共に城国淀城に籠る義昭の幕臣・岩成友通を攻撃して撃破します。
この働きのおかげで藤英は伏見城を安堵されます。
しかしその後、ぷっつりと三淵藤英に関する記録がなくなります。
そして次に史料に記述があるのが「藤英、近江坂本城に自害すること、1574年7月6日の条に見ゆ」という信長から切腹を命じられたものです。
三淵藤英は嫡男と共に明智光秀の居城・坂本城で自害したといわれています。
織田信長が切腹を命じた理由を考察
織田信長が藤英に切腹を命じた理由は史料に記録がありません。
なぜ信長が切腹を命じたのかは謎に包まれています。
ここからは私の考察になるのですが、信長が藤英に切腹を命じた理由は記録のない空白の10か月の間に信長の怒りを買うようなことをしたのでは?と思っています。
信長は残虐な面を持ち合わせています。
例えば信長を裏切った朝倉景義景と浅井長政と戦になり二人とも破れるのですが、信長は二人の頭蓋骨を盃にして宴を行い見せしめにしたという残虐な逸話が残っています。
残虐な事件では比叡山延暦寺の焼き討ちもあります。
自分に逆らった浅井長政と朝倉義景の兵を延暦寺がかばったことで、信長が焼き討ちにしたのです。
霊社や経巻などすべてを焼き払い、比叡山は1日で灰になりました。
信長について書かれた「信長公記」には、日吉大社に逃げ込んだ人々を次々と惨殺したなど凄惨な様子も記されています。
信長の残虐さがわかりますよね。
大河ドラマ「麒麟がくる」でも青年期からサイコパスな一面がわかるシーンがちらほらありました。
こんな信長なのでもし三淵藤英が信長の癇に障るような発言や態度を示していたとしたらどうでしょう?
藤英は仲が悪く対立していた足利義昭の幕臣でした。
信長と義昭が戦になる時に弟はすぐさま信長につきましたが、藤英は信長にはつかず義昭につく姿勢を崩しませんでした。
信長包囲網の主犯であった足利義昭に従っていましたし、異母弟の細川藤孝が織田陣営に降る中、それに激怒したうえ信長に敵対しています。
家臣に迎え入れたとはいえ、最期まで信長を敵と思っていた人間のことを信長がチェックしていないわけがありません。
もしかしたら再び義昭が京へ戻れるように裏で動いていたのがバレてしまったのかもしれません。
いずれにしても空白の10ヶ月間の最中に、信長の逆鱗に触れるような何かしらの問題を起こしていたと考えるのが一番ありそうかなと思いました。
信長は山城国から足利幕府の関係者を追い出したかったと考えていた中、三淵藤英が信長の逆鱗に触れる何かをしていたことがバレた、と考えるのが妥当かなと思います。
三淵藤英と織田信長の関係
三淵藤英は足利義昭に仕えていました。
足利義昭と織田信長は敵対していたので、家臣の三淵藤英と織田信長も敵対関係にありました。
ですが二条城を攻められ絶対絶命になり、素直に降参した藤英は信長に罰せられることはありませんでした。
本来であれば自分に背いた敵は処分するのが普通なのに信長は藤英を生かしたところを考えると、信長は藤英の能力を認めていたのでは?と思います。
藤英は義昭が京を追放されて生きてく上でやむを得ず信長の家臣になったのかもしれません。
その温度差がもしかしたら切腹に繋がったのかもしれませんね。
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まとめ
今回は三淵藤英について書いていきました。
足利義昭から織田信長の家臣になった藤英ですが、記録のない10か月後に信長に切腹を言い渡され、明智光秀の居城である坂本城で自害しました。
幕臣として地味ながらもしっかり仕事をこなしていた三淵藤英ですが、最期は謎の死を遂げてしまいました。
今回の大河ドラマ「麒麟がくる」で三淵藤英の自害の謎が少しでもわかるといいなと思います。
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