斎藤道三の生い立ちや経歴・性格!明智光秀との関係についても

美濃マムシと言われた斎藤道三

下克上の戦国時代で見事に成り上がり、美濃のトップまで乗りつめます。

1973年に放送された第11作目のNHK大河ドラマ「国盗り物語」では、前半の主役は斎藤道三で後半の主役として、信長と光秀にフォーカスをあてて描かれました。

今回は、斎藤道三(さいとう どうさん)の経歴, 性格, そして、明智光秀との関係についてお伝えしたいと思います。

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目次

斎藤道三の経歴

少年時代の斎藤道三

斎藤道三は、1494年 山城国乙訓郡西岡(現在の京都府)に生まれたと言われています。

幼名は、峰丸といい、先祖代々北面の武士(ほくめんのぶし)の家系に生まれたという説が一般的です。

北面の武士とは、11世紀末に白河上皇が院政を作って以降続く、上皇の居所(院御所)を警護す武士のことです。

峰丸は、7歳の時(1504年)に京の妙覚寺(みょうかくじ)に入り、11歳で僧侶・法蓮房と名乗るようになります。

 

斎藤道三の10代から30代前半は?

その後、道三の友人が美濃の常在寺(じょうざいじ)(現在の岐阜市)の住職として派遣されることになったのを契機に、道三は僧侶を辞め、美濃に移ったと言われています。

その後、松波庄五郎(庄九郎という説もなる)と名乗り、油問屋, 奈良屋又兵衛(ならやまたべい)の娘を嫁に迎えると、商売に専念します。

積極的な行商により油問屋事業は拡大していきます。

ある時、道三の油売りのパフォーマンスを見ていた土岐家の家臣から武士になっても成功すると誉められたことをきっかけに、油問屋を閉じ、武士になることを目標に槍と鉄砲のけいこを始めたと言われています。

 

武士となった斎藤道三は?

旧知の常在寺(じょうざいじ)の住職に土岐氏との間を取り持ってもらうと道三は土岐氏の重臣, 長井長弘(ながい ながひろ)の家臣になります。

そして、道三は長井家の重臣, 西村家の家督を譲り受けることに成功し、西村勘九郎と名乗ります。

当時、土岐氏のトップ(宗家)は、土岐頼武(とき よりたけ)で、その弟が土岐頼芸(とき よりあき/よりよし)でした。

弟、土岐頼芸は西村勘九郎(道三)の才覚を認め、次第に勘九郎に信頼を寄せるようになります。

最終的には、土岐家の家督を相続するのは、兄, 土岐頼武に決まりますが、道三は策略を立て、頼武を攻め越前に追いやります。

また、以前の主君でもあった長井長弘(ながい ながひろ)を排除するために殺害し、美濃守護代の斎藤利良(さいとう としなが)が病死すると、道三は名を継いで、斎藤新九郎利政と名乗ることになります。

 

斎藤道三が稲葉城の改修に着手したのもこのころです。

そして、宗家, 土岐頼芸の弟がなにものかに毒殺されると、頼芸と道三の関係は悪化し、最終的には道三が頼芸を攻め、頼芸は尾張に追いやられる。

宗家を退け、道三は実質上の美濃のトップに君臨することになったのです。

 

斎藤道三の死

1544年、道三(当時の名前は斎藤新九郎利政)は家督を息子の斎藤義龍(さいとう よしたつ)に譲り、出家し斎藤道三と名乗り隠居することになりますが、一方で自身の判断に疑問を持つようになります。

家督は義龍ではなく、義龍の弟たち, 孫四郎か喜平次に継がせるべきであったのではないか?と。

道三が義龍の技量が十分ではなかったから、あるいは、道三にとっては、孫四郎か喜平次との関係の方がよかったからとも言われています。

いずれにしても道三と義龍との関係の悪化は顕著となり、義龍は弟たちを殺害すると、1556年約17000人兵を率いて道三を攻めることになります。

道三は2500人の兵と共に長良川河畔で戦い、道三はここで戦死します。

斎藤道三はどんな人だったのか?

行動力と社交性

斎藤道三が極めて優れていた点は、その行動力です。

僧侶から商人、 また武士に転身してからも次々に行動を起こしていきます。

やはり、体力とバイタリティーがあったからこそ、達成できた偉業です。

しかし、行動力があったとしても、人の心に入り込まないと、ことは成就していきません。

道三は、巧みに人のこころに入り込む、世当たり上手で要領のいい頭脳を持ち合わせていました。

 

人を騙せる非情さ

斎藤道三が生きた時代は、世の中が乱れた下克上の時代です。

「今日の味方は明日の敵」の時代です。

幼いころから寺に入り、行商で人と多く接するうちに道三は自身がどんな社会の中でいきていて、人がどんな行動するのかを冷静な目で観察しながら、成長していったのではないでしょうか?

自分が生き残るためには、どうすればよいのか?

成りあがるためには、どうすればよいのかを常に自問自答していたのではないでしょうか?

だからこそ、人には「マムシ」と呼ばれるほどの非情さに徹し続けることができたのだと思います。

 

卓越した観察力と洞察力

下克上の世の中を生き残るためには、自分の目で見て、判断する能力が求められます。

その場、その場で相手がどういう人間なのかを判断することが要求された時代でした。

 

よく紹介される逸話が、織田信長との初対面の時です。

当時の美濃も尾張も周りは有力な戦国大名に囲まれていました。

美濃の斎藤道三と尾張の織田信秀(信長の父)は、最大のライバルでした。

信秀は、東の今川家との戦いに敗れると美濃と同盟を結ぶことを検討し始めます。

同盟関係を結ぶための証のひとつが、信長と道三の娘, 帰蝶(濃姫)を婚姻させることでした。

そして、信長と道三が尾張と美濃の境にある正徳寺で対面する運びになります。

当時、信長について語られていたのは、「うつけ者」というレッテルです。

「うつけ」というのは、中身のない愚かな人間のことをいいます。

道三は、信長が寺へ向かう途中、遠くから様子を伺っていました。

馬に乗った信長の髪はボサボサ、身に着けているものも普段着で、腰にはいくつかのひょうたんもぶら下げていたとも語られています。

 

「やはり、信長はうつけか」と思いながら対面した道三は驚きます。

そこには、正装でバッチリ決め、髪を整えた信長が登場するのです。

信長が率いていた家来たちも精鋭で、隊列も優れており、当時、世の中に普及していない鉄砲も信長は準備していました。

道三は、信長が優れている点を見抜き、「いつか美濃は信長のものになる」とも自身の家来たちにも語ったと言われています。

信長そして、光秀の才能を早くから見抜いていたのが道三でした。

明智光秀との関係

美濃の斎藤道三派閥であった明智家

鎌倉時代から光秀の時代まで、美濃(岐阜県の南部)を統治してきたのは、美濃源氏の嫡流であった土岐氏でした。

最盛期には、土岐氏は、美濃だけでなく、尾張と伊勢の三か国の守護大名になっていた時代もありました。

そんな美濃の土岐氏に内部に入り込み、後発の身から当主になったのが斎藤道三でした。

光秀の明智家は、土岐家の分家(支流)の一つでしたが、明智家は斎藤道三派閥に加わります。

そのため、光秀にとって、道三は親方様であり、しかも明智家は土岐氏の中でも道三を支える直属の部隊でもありました。

道三が家督を息子である義龍に譲ると、多くの派閥が義龍側に加わり、義龍のクーデターによって道三は討たれます。

明知城に立てこもっていた明智一族も義龍側に責められ、明智城は落城。

伯父の配慮で光秀は逃がされますが、そのために美濃を去ることになるのです。

 

義理の伯父でもあった斎藤道三

光秀の祖父は、明智城(長山城)の城主, 明智光継(あけち みつつぐ)でした。

光秀の父親の妹が、小見の方(おみのかた)で、後に道三の正室になります。

そのため、光秀にとって、道三は、義理の伯父にあたる存在でもありました。

道三と小見の方の娘が, 帰蝶(濃姫)ですから、光秀と帰蝶は従妹同士でした。

帰蝶は後に織田信長に嫁ぐことになりますが、信長は光秀にとって、従妹の結婚相手でもあったのです。

 

師弟関係でもあった斎藤道三と明智光秀

道三は、光秀の卓越した戦法や能力を早くから高く評価していたと言われていますし、光秀に対する期待も大きかったと言われています。

道三は、光秀のことを頼りになる弟子、光秀は道三を人生の先輩であり師であると感じていたのかもしれません。

道三と光秀の関係が、極めて良好な関係であったことは間違いありません。

まとめ

斎藤道三は、僧侶から商人となり、そして武士に転身した人物でした。

しかも、代々、守護を担ってきた美濃の土岐氏に入り込み、トップの座を獲得することになります。

斎藤道三は、戦国の下克上の時代に登場した、時代にマッチしたヒーローだったと言えるかもしれません。

その後、活躍する織田信長や明智光秀にも大きな影響を与えた人物でもありました。

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