阿部正弘はどんな人で何をした人?業績や功績の簡単まとめと評価についても

幕末時代に徳川幕府の老中首座として活躍した阿部正弘

幼い頃から能力が高く、徳川家慶に気に入られ若干25歳にして史上最年少の老中に抜擢され、過去の慣例にとらわれない政策を行い、多くの業績や功績を上げた人物です。

今回は阿部正弘がどんな人物で何をした人なのか、業績や功績を簡単にまとめて紹介していきます。

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阿部正弘はどんな人

阿倍正弘は江戸時代末期の備後国福山藩の藩主であり幕府の老中を務めた人物です。

阿部正弘は1819年に第五代備後福山藩主、江戸の西の丸藩邸で阿部の五男として生まれます。

正弘のお膝元、福山藩では藩士が学ぶ藩校を廃止し身分に関係無く学べる教育改革を行うなど備後藩での実績があります。

若くして藩主となった正弘は藩政の実績が認められ、幕府の役職も歴任、そして将軍家慶に気に入られ25歳という若さで史上最年少の老中に任じられます

鎖国政策をしいていた徳川幕府は江戸末期になると、諸外国に開国を迫られるという危機的状況下に陥ります。

その鎖国政策を終わりし、それまでの慣習には囚われない近代日本への道のりの礎を作ったと言える人物の1人です

最年少老中・老中首座になった。

25歳という若さで老中になった阿部正弘は不正を行っていた水野忠邦やその家臣を官職を辞職させたりと大胆な手腕を発揮し27歳にして老中の最高責任者である老中首座に任じられます。

不正を許さず慣習に囚われないからと言って、けして自己主張の強いわけでは無く聞き上手だったと言われ、譜代・外様大名からも幅広く意見を求めるタイプでした。

そんな正弘に、ペリー来航という未曾有の危機に直面します。

海外の軍事力にはとても抵抗できないと冷静に分析し、攘夷は無理ということをよく解っていました。

軍事力が劣っているからと言ってただ屈することは無く、日本の権威を保ちつつ交渉を行ったそうです。

結果、戦争を避けるために日米和親条約締結させ、それまでに無かった政策を実施、能力重視の人材登用など幕府の新体制を作っていきます。

国難に立ち向かう激務のためか正弘は老中在任中に、急死してしまいます。

享年39歳、短くも濃い生涯でした。

阿部正弘は何をした人

ここからは阿部正弘が何をした人なのか簡単にわかるように業績功績を簡単にまとて紹介していきます。

業績や功績の簡単まとめ

①老中に就任・幕府内の不正を正す。

老中に就任した阿部正弘は天保の改革に失敗したことと家臣から賄賂をもらうという不正、そして、家臣が砲術家の高島秋帆に罪をきせ投獄したとして水野忠邦やその家臣を官職を辞職させたりと大胆な手腕を発揮し27歳にして老中の最高責任者である老中首座に任じられます。

②慣習にとらわれず外様大名や旗本から広く意見を募る

徳川幕府の政治は親藩(徳川の親族・親戚に当たる大名)・譜代(関ヶ原の戦い以前からの家臣の大名)によって政治が行われていました。

しかし、老中首座になった阿部正弘はこの慣習にとらわれることなく、外様大名や旗本などから意見を募り、よい政策や考えのものは取り入れ幕政に反映していきました。

③日米修好通商条約締結

阿部正弘は日米修好通商条約を締結していますが、ただ単に安易に条約を締結しているわけではありません。

阿部正弘はもともと条約を結ぶことはには反対していたのです。

実際に阿部正弘は1846年に来航したアメリカ艦隊のジェームズ・ビルド司令官から貿易開始要求に正式に断っていますし、1953年のロシア艦隊のプチャーチンの長崎で貿易開始要求も正式に断っています。

このようにギリギリまで諸外国との条約締結を渋っていたのです。

がしかし、条約を締結しないことを理由に開戦をちらつかせてきた諸外国との戦争にならないためのなけなしの政策として日米修好通商条約を締結したです。

実際に阿部正弘は条約で最低限の譲歩として下記の点の締結と幕府の最高責任者は条約締結に関与していないこと幕府の面子を保っているという点です。

①アメリカに食料などの補給地点として入稿は認めるが、貿易をすることは認めていてない。
②アメリカ人は下田港から7里(27.4キロ)、函館港から5里(19.6キロ)までしか移動を認めていない。
③アメリカ人は武家屋敷や町家には立ち入ってならない。

これは当時の幕府の政策としては最大限で絶妙な政策と言えるでしょう。

④安政の改革

阿部正弘は水野忠邦の「天保の改革」の失敗を批判し、安政の改革を行います。

鎖国政策を終わらせ国を開き新しい体制で諸外国と渡り合おうとしました。

そのため、阿部正弘は軍事力強化のための海防政策と外様大名や旗本などの出自に関係なく人材を登用するという政策をしています。

海防政策

阿部正弘は海防強化のため下記の政策を行っています。

①講武所の創設(後の陸軍)
②長崎海軍伝習所の創設(後の海軍)
③洋学所の創設(後の東京大学)
④台場に禁止されていた大型船の建造許可

 

出自に関係ない人材登用

阿部正弘はこれまでの慣習にのっとならない、出自に関係なく優秀な人材登用を行っています。

実際に阿部正弘は下記の人物らを登用しています。

①勝海舟
②川路聖謨(かわじとしあきら)
③大久保忠寛
③永井尚志
④水野忠徳
⑤江川英龍
⑥岩瀬忠震(いわせただなり)
⑦ジョン万次郎

 

とくにジョン万次郎に至っては武士の家系ですらなく漁師の家系でありながら、難破したところをアメリカ船に助け出されられ、アメリカで生活したことのある・文化をしる唯一の人物として幕臣にしています。

このようにほとんどが旗本身分以下の人物たちですが、能力重視の人材登用しています。

早くに亡くなってしまったため、明治維新も維新後の日本を見ることができなかったものの、正弘が創設したものが近代日本にとって重要な役割を担っていくなど、先見の目があった人物と言えると思います。

阿部正弘の評価

正弘は、それまで幕政に参加できなかった外様大名や旗本に力を与えました。

これが幕府を弱体化させた一因と言え、逆の見方をすれば出身に囚われずに能力を重視し、新しい日本へ導く改革を行った人物とも言えます。

しかし、あの硬直した古い体質のままの幕府だったら、もしかして欧米に支配されていたかもしれません。

古い体制に囚われなかった正弘の功績は非常に大きいと思えます。

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まとめ

残念なことに阿部正弘は日米和親条約終結後まもなく亡くなってしまったせいか、偉業をあまり知られていないように思えます。

アメリカから突きつけられた厳しい要求、長い歴史で硬直してしまい上手く対応できない幕府、混迷する幕末の日本の危機を救った老中だと思います。

その後、明治維新を成し遂げた多くのヒーロー達が出て来ますが、阿部正弘こそ新時代の幕開けの門を叩き、日本の危機を救った人物と言えます。

 

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