北条政子の演説や名言・逸話を簡単に紹介!意味や意図についても

北条政子は歴代の大河ドラマの中でも、重要な役どころとして登場してきました。

2022年の大河ドラマである「鎌倉殿の13人」でも、物語進行の要となるのは間違いないでしょうね。

そんな政子が実は名演説家であったことをみなさんはご存じでしたか?

彼女が語った言葉とされるものが現代にも伝えられていて、中には歴史を左右するような内容も含まれています。

今回はそんな政子が語った言葉をご紹介したいと思います。

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目次

北条政子の演説を簡単に紹介!

北条政子が語った言葉の中でもっと有名なものは、鎌倉の武家政権と京都の公家政権が争いとなった承久の乱において行った演説です。

京都側は後鳥羽上皇という皇族が後ろ盾となった軍であり、その権威は大きく畏れ多いものでした。

一方で鎌倉側は清和源氏の末裔たる頼朝直系の血が絶え、摂関家の形ばかりの棟梁を掲げた地方豪族の集団にすぎません。

これほどまでに歴然とした“格差”があったのですから、鎌倉側の御家人たちが戦うことを躊躇したとしても不思議ではありません。

どちらにつくのが有利か打算的な御家人も多い中、そのような状況を見て政子はこのように言ったと伝えられています。

皆心を一にして奉るべし。是れ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志浅からんや。而るに今逆臣の讒に依りて、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康、胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切る可し者り。」(出典『吾妻鏡』

 

この演説の後に幕府軍は19万旗の大軍で京都に攻め上り、後鳥羽上皇側の軍を各地で討ち破った末に京都を占領しました。

後鳥羽上皇は北条義時を追討する命令を取り消し、承久の乱は終結することとなりました。

演説の意図や意味は?

さて上では『吾妻鏡』に載る原文のままご紹介しましたが、現代の言葉にすると以下のような意味になります。

これが私の最後の言葉だと思って、みんな心をひとつにして聞いて欲しい。頼朝様が朝敵を滅ぼし鎌倉に幕府を開いたことで、みんなは今の地位を得た。頼朝様の御恩は山よりも高く海よりも深いのではないか。我々を討つ上皇様のご命令は逆臣たちの入れ知恵に過ぎない。その逆臣である藤原秀康や三浦胤義たちを討って、実朝様まで続く将軍様の遺業を継いでゆこうではないか。それでも向こう側につきたいと言う者は直ちに去るがいい。

 

政子はこの演説により、後鳥羽上皇は周囲にそそのかされただけで本当の敵は藤原秀康や三浦胤義たちであること、御家人たちが今の地位を得たのは頼朝によるものであり、鎌倉の武家政権を守ることが御家人にとって重要であることを説きました。

元々武士は地方豪族が自分たちの領地を守るために武装したのが始まりと言われ、有力な家と個別に主従関係を結んでいたと考えられています。

「御恩と奉公」のような主従関係が生まれたのは、頼朝が鎌倉幕府を開いてからと言われています。

自分の所領を守るためどちらにつくべきかと打算的に動く御家人たちに対し、政子は頼朝以来の恩義を強調することで心を動かそうとしたと考えられます

戦いの潮目を変え幕府軍を勝利に導いたのが政子の言葉だったしたら、これは歴史的な遺業と言えるのではないでしょうか?

北条政子の名言や逸話・その意味や意図についても

『吾妻鏡』にはそのほかにも、政子の凛々しい性格を表すような逸話が残されています。

息子である2代将軍頼家が家臣である安達景盛の妾を奪うという事件が起こります。

景盛がそれを恨んでいると聞くや、頼家は比企氏や和田氏に景盛を討つよう命じます。

このとき政子は安達景盛の屋敷に入り、使者を送り頼家を強く諫め「景盛を討つと言うならば、まず私を矢で射なさい。」と語ったと言われています。

「〇〇を殺すならまず私を殺しなさい!」という台詞、創作の世界でよく耳にしますよね?

その原型がここにあるとしたら…とても面白いですね。

しかしこれには裏事情があったと考えられています。

頼家の後ろ盾となっていた比企氏は、安達景盛の母の実家でもあり浅からぬ縁がありました。

しかし上記の事件で安達氏を頼家と比企氏の影響から引き離し、北条氏の味方に付けることに成功したのです。

その後北条氏と安達氏は協力関係となり、幕府内の権力争いをともに勝ち抜いてゆくこととなります。

そんな猛々しい発言が残る一方で、政子の芯にある優しさが垣間見える言葉も残されています。

頼朝の弟である義経が幕府に追われる身となり、妾であった静御前は捕らえられ鎌倉へ送られます。

義経への思いを隠さない静御前に頼朝は激怒しますが、政子は頼朝に「私もあなたとともに辛い日々を乗り越えてきました。今の彼女の思いはあの時の私と同じですよ。」と諭します。

これを聞いた頼朝は怒りを鎮め、静御前に褒美を与えたと言われています。

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まとめ

政子が語ったとされる言葉をご紹介し、そこから推察できる“政子像”を考察してみました。

みなさんはどのようにお感じになられるでしょうか?

承久の乱での演説では頼朝が作り上げた鎌倉政権を守ろうとする気概が、頼家を諫めた言葉には北条氏を背負う責任感があったように思えます。

頼朝の愛妾であった亀の前が暮らす館は破壊した一方で、同じく辛い境遇にある静御前には優しさを見せる政子。

政治手腕に長け喜怒哀楽がはっきりとしている、そんな政子の人物像が見えてきますね。

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