親方様である織田信長の天下統一の夢を最終的に達成したのは、信長の家臣・豊臣秀吉でした。
しかも、豊臣秀吉は信長や家康とは異なり、武家の家に生まれたわけではなく農民の出身でした。
どうして、農民出身の豊臣秀吉が天下統一を成し遂げられたのでしょうか?
今回は、豊臣秀吉の生い立ちや経歴, 性格や業績などをお伝えしたいと思います。
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目次
豊臣秀吉の生い立ち
1537年 豊臣秀吉は尾張国愛知郡(現在の名古屋市中村区)で生まれます。
幼名は日吉丸(ひよしまる)と名付けられました。
6歳の時に光明寺に預けられます。
現在でも残っている豊臣秀吉の書面を見ると、かなりの達筆ですが、寺に預けられていたころに書を学んだのかもしれませんね。
豊臣秀吉は義父とそりが合わず、家から飛び出したという説もあります。
1551年、豊臣秀吉は14才のときに今川家の家臣で、頭陀寺城(ずだじじょう)主であった松下之綱(まつした ゆきつな)に仕えます。
初めての勤務地は現在の静岡県浜松市だったわけで、ここで元服します。
仕官した豊臣秀吉は、主人にかわいがれていたそうですが、周囲の妬みをかったのか間もなく松下家を去ることになります。
1554年、豊臣秀吉17歳のときに、当時清州城主であった織田信長に小者として仕えるようになります。
信長の草履を自分のふところで温めた話は有名ですが、台所で使うまきの使用量を減らしたり、清州城の石垣修理の工期を短縮させたり、織田家内部の生活に関わる仕事をしていました。
織田家内の仕事に励んでいた秀吉は信長の弓衆である浅野長勝(あさのながかつ) の養女・ 寧々(ねね)に一目ぼれしてプロポーズします。
当時、恋愛結婚はめずらしく、また、寧々の母親も身分の違いから結婚を反対。
イケメンでもなくサルのような顔をしていた秀吉でしたが、寧々は秀吉との結婚を決意します。
寧々は、豊臣秀吉の家臣たちの信頼も厚く豊臣秀吉が逝去したあとも、家臣たちの相談に親身にのった人物です。
豊臣秀吉の経歴
豊臣秀吉は25歳になったときに足軽百人組頭に1566年(豊臣秀吉29歳のとき)には、京都へ上るための重要拠点である墨俣(すのまた)(岐阜県)に一夜で美濃を攻撃する拠点「墨俣城」を築き、美濃を倒す基盤を築きました。
1573年(豊臣秀吉36歳)のとき、信長の浅井・朝倉攻めに活躍し、浅井家の領地であった江北三郡を信長から与えられます。
翌年1574年には、豊臣秀吉が近江長浜城の城主となります。
1575年、 織田・徳川連合軍は、長篠の戦で武田郡を破ると、信長の次の標的は中国地方の毛利家になります。
豊臣秀吉は中国攻めの中心としてつぎつぎに中国攻めをすすめていき、1582年(豊臣秀吉45歳)の年には豊臣秀吉は清水宗治(しみず むねはる)が守る備中高松城を攻略中でした。
城の廻りを水攻めにすると計画した豊臣秀吉軍でしたが、毛利家の本体5万人が高松城を救援に来るという情報を得て、豊臣秀吉は信長に援軍を要請します。
豊臣秀吉の要請を受けて、信長は明智光秀に秀吉の援軍として出陣するように命令を出します。
同年、豊臣秀吉の援軍のために出陣したように見えた光秀軍は、方向を変え、本能寺に滞在中の織田信長に謀反を起こし、信長は本能寺で自害します。
備中高松にいた秀吉は、清水宗治が水で囲まれて湖のようななった船の上で切腹するのを見届けると、すぐに、光秀を討つために全軍で、東へもどります。
そして、山崎の戦いで光秀を討ったのです。
その後、織田家内の勢力争いに勝利した秀吉は、1583年には大阪城を建立し、ライバルの徳川家康も表向きは秀吉の全国統一を承認することになります。
1585年48歳の時には、豊臣秀吉は関白に就任します。
1598年幼い息子の秀頼の後見人として徳川家康を指名し、62歳で死去。
豊臣秀吉の性格
豊臣秀吉の性格を考えるとき、信長の生前と生後でわけて考えた方が理解しやすいと思います。
織田信長生前の豊臣秀吉の性格
人たらしと言われた豊臣秀吉
農民出身であった秀吉は、武家出身者とは異なり、変なプライドやしがらみもなく、親しみやすい性格だったと考えられています。
相手のいいところを認めるのが上手で、相手をほめて、時にはバカ騒ぎをして人々のふところに入っていき、率直に語る誠実さがありました。
人をひきつける愛嬌のあった人だったと伝えられています。
信長とは違った魅力を持つ秀吉には、優秀な家臣たちも寄ってきました。
蜂須賀小六(はちすかころく)、 竹中半兵衛(たけなかはんべい)、 黒田官兵衛(くろだかんべい)などなど。
中には、織田家直系の家臣ではなく、豊臣秀吉の家臣となることを希望したものもいました。
豊臣秀吉は人気ものですから友達もたくさんいました。
信長の家臣である前田利家は豊臣秀吉の大の親友でした。
アットホームな雰囲気
豊臣秀吉は農民の出ではあったものの家族たちや親族には恵まれました。
あまり、ドラマなどでは語られていませんが、豊臣秀吉が天下取りを目指せるようになったのには、弟の豊臣秀長の存在はかかせません。
アイディアマンであった豊臣秀吉の作戦を実行するのにはやはりお金が必要でしたし、人ときちんとした付き合いをしていくのにもお金は必要でした。
兄の豊臣秀吉が信長の命令を果たせるようにお金を工面してきたのが弟の秀長でした。
信長死後、豊臣秀吉が天下取りを実現した後も豊臣家の健全な財政状況を実現させたのも秀長です。
また、徳川家康やその他の大名たちとの交渉にあたっていたのも秀長でした。
また、妻の寧々との間には子供さえいなかったものの、豊臣秀吉の妻として寧々は家臣たちの世話に尽力し、加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)などは成人してからも寧々を慕っていました。
秀吉の家族や家臣たちには、明るいアットホームな雰囲気があったのだと思います。
織田信長の死後の豊臣秀吉の性格
織田家の家臣の中でも、最も信長に尽くし、全力を尽くしてきたのが豊臣秀吉だったと思います。
しかし、信長の死後も豊臣秀吉の信長コンプレックスは続きました。
尊敬の対象であり、畏怖の対象であり、英雄であり、ときに非情でもあった信長。
信長の死後も豊臣秀吉は信長のようになることを目指し、信長を超えることを目指します。
信長が建立した安土城よりも立派な大阪城を建て、茶の湯の権威である千利休(せんのりきゅう)をそばに置き、朝鮮への出兵も行います。
信長に仕えていたころと異なり、天下人になった秀吉は人間不信にも陥ります。
謀反の疑いがあるとして、甥の関白豊臣英次(とよとみひでつぐ)を切腹まで追い込み、千利休にも切腹を命じ、カトリック信者の処刑も命じます。
天下一になったからこそ、多くのことに悩み続けた秀吉でした。
豊臣秀吉の業績
豊臣秀吉は、織田信長の意志を継ぎ、天下統一を成し遂げただけでなく、いくつかの制度も新たに始めました。
太閤検地(たいこうけんち)
それまでの土地管理は、バラバラな基準で納められていましたし、また、ひとつの土地に複数の持ち主が存在するという問題も表面化していました。
その土地を統治する大名によってバラバラの基準で計量されていたわけです。
豊臣秀吉は、寸法や量が同じ「京枡」(きょうます)を使用することで全国統一の計量方法を定めたのです。
また、土地によって豊かな土地もあれば、貧弱な土地もあるため、土地の収穫量のランク付けも4段階に分けて評価するようにしました。
それと同時に田畑に年貢を納める責任者を定め、収穫量が客観的に評価できるようになり、きちんと管理できるようになっていきました。
刀狩り(かたながり)
刀狩りとは、農民から、槍や刀、鉄砲などを回収する制度のことで、武具を回収することで農民が簡単には反抗できないようにしたのです。
年貢を納める義務を怠った場合などには、家族全員をはりつけにするという極めて厳しい制度を設け、当初は反乱なども起こりましたが、豊臣秀吉は着実に農民の管理を履行していきました。
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まとめ
1537年 豊臣秀吉は現在の名古屋市中村区で生まれます。
14才のときに今川家の家臣の家に仕官した後、17歳のときには織田家に仕官します。
当初は、信長の清州城内の仕事をしていましたが、25歳のとき足軽百人組になった後は、信長の天下統一のために尽力し織田家の中でも明智光秀と競うほどに出世していきました。
信長から中国攻めを任せられ、1582年には備中高松を追い詰めていた矢先に主君信長が光秀の謀反により自害すると、すぐに東へ戻り、光秀を倒し、天下統一を成し遂げました。
豊臣秀吉の性格は人たらしと言われるほど、親しみやすく、相手のふところに飛び込むことに長けており、数多くの実力のある家臣を従え、アットホームな雰囲気の中、家族や親族の協力にも恵まれました。
しかし、信長の死後、トップになってからは、トップになったがゆえの人に対しての不信感からか、厳しすぎる決断も少なくありませんでした。
豊臣秀吉は、幼い息子の秀頼を家康に託し、62歳で死去します。
豊臣秀吉の功績は天下統一を成し遂げたことだけでなく、農地の法制度の改革や運営も積極的に行い太閤検地や刀狩りなどの制度も制定しました。
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