細川藤孝と明智光秀の関係は?手紙や本能寺の変に加担しなかった理由も考察

今回は細川藤孝と明智光秀の関係を書いていこうと思います。

細川藤孝と明智光秀は面識があるのはもちろんのこと、お互いの子供までも関わりのある繋がりの深い二人です。

「麒麟がくる」では細川藤孝は光秀と酒を酌み交わしこの国の未来を語り合ったり、美濃を追われた光秀を助けたりと盟友と言える存在として出ています。

実際の光秀と藤孝の関係はどうだったのか?また、仲のよかったはずの二人なのに、なぜ藤孝は光秀が起こした本能寺の変に加担しなかったのか?などを考察していきたいと思います。

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目次

細川藤孝とはどんな人物?

細川藤孝は筋金入りの超エリートで、スーパーヒューマンです。

藤孝が生まれた細川家は室町幕府の重要ポストであり、管領NO.2に就ける家柄の1つ。

その分家筋に生まれたのが藤孝です。

13歳で元服、二十歳で家督を継ぐというスピード出世をしています。

しかも和歌・茶道・蹴鞠・囲碁・料理など教養、刀・弓といった武術を身に着けていたという完璧人間

エリート中のエリートです。

 

そんな藤孝に災難が訪れるのが将軍・足利義輝に仕えていた時に起きた「永禄の変」です。

仕えていた将軍・足利義輝が三好三人衆に暗殺されてしまいます。

藤孝は勝龍寺城にいたため無事でしたが、兄の三淵藤英らと一緒に幽閉された足利義輝の弟・足利義昭を救出し逃げ出します。

藤孝たちは浪人となり、色んなところを転々とします。

足利義昭に就いていた藤孝ですが、将軍就任をお願いに行った際に初めて織田信長と会います。

ちなみにその時共に行動していたのは明智光秀です。

織田信長と会ってから信長の家臣のような働きをしますが、正式に家臣になったのは1573年と言われています。

その年に信長と足利義昭の仲が分裂し、藤孝は信長の傘下に入りました。

 

そして1582年に本能寺の変が勃発しますが、再三光秀から手を組んで欲しいと言われたにも関わらず藤孝は絶対首を縦に振りませんでした。

結果光秀は破れて自害します。

藤孝は信長を偲んで頭を剃り、出家します。

その後豊臣秀吉が天下になると、細川藤孝は教養を高く買われて武士よりも文化人として茶会や歌会などの仕事をするようになります。

藤孝の教養がいかに高かったかがわかるのが、豊臣側と徳川側の戦いの「関ヶ原の戦い」です。

当時藤孝は徳川側についていて京の田辺城にいたのですが、藤孝側が500の兵だったのに対し、豊臣側は15000もの兵で城を取り囲まれたのだそうです。

絶対絶命、もうだめか・・・と思いきや藤孝は助かります。

なぜかというと「古今伝授」という秘伝を受け継いだ唯一の人物だったからです。

古今伝授とは古今和歌集を釈についての秘伝を受け継ぐ人で、この時は伝承者が藤孝のみでした。

つまり藤孝を殺せば伝承者がいなくなってしまいます。

それはまずいということで天皇が停戦の勅命を出したと言われています。

実は弟子に伝承している最中だったようですが、急に途中で辞めたのだとか。

それは最後の一人になって自分の身を守るためだったのでは?と言われています。

めちゃくちゃ頭のいい人ですね。

明智光秀との関係

文武両道な藤孝が明智光秀と初めて会ったのは、永禄の変で流浪生活をしていた時だと言われています。

藤孝は足利義昭と共に幕府再興を狙って色んな場所の大名の間を渡り歩いていました。

藤孝は光秀が仕えたとされている越前の朝倉義景の世話にもなっていたようで、そこで光秀と出会っています。

そして足利義昭を将軍就任させるために光秀を通じて織田信長に会えるよう取り次いでもらいます。

このあたりから光秀と藤孝の関係が深くなっていきます。

一番のきっかけは藤孝の嫡男の忠興と光秀の娘ガラシャ(玉子)の結婚です。

これで明智家と細川家は親族になったわけです。

そして本能寺の変が起こります。

親戚ならもちろん味方してくれると思いきや、再三の光秀からのお願いを藤孝は受け入れず・・・。

光秀は本能寺の変で信長を討つも、その後破れ自害してしまいます。

藤孝は本能寺の変のあと、出家して細川幽斎と名を変えます。

細川藤孝が本能寺の変で加担しなかった理由を考察

なぜ細川藤孝は明智光秀に味方しなかったのでしょうか。

明智光秀は本能寺の変を起こした後に細川藤孝に手紙を書きます

本能寺の変で信長を討った光秀ですが、豊臣秀吉らの戦いに備える必要があったので助太刀を頼んだのです

ですが細川藤孝ら細川家は喪に服していました。

喪に服すということは信長を偲んでいるということ

つまり信長の味方ということを表しています。

光秀は手紙で再三助けてほしいと文を出しますが「助けない」の一点張りです。

結局藤孝は信長を偲んで頭を丸め出家までしてしまいます。

完全に光秀を切ったのです。

なぜ味方をしなかったのか?に関してはいくつか説があります。

光秀の事前の根回しが足りなかった説

主君を裏切るにはそれなりの事前準備が必要なのに、光秀から信長を裏切ることを聞いたのは、本能寺の変が起きたあとのことです。

光秀も頭のいい策士なはずなのですが、今回ばかりは突発的すぎて藤孝も見限ったのではと言われています。

藤孝が縁を大事にしていなかったという説

光秀はガラシャの婚姻などもあり藤孝が裏切るなんて考えていないそぶりが手紙から感じ取れます。

ですが藤孝からしたら信長きっかけで繋がっていただけと思っていたのでは?と言われています。二人の縁に温度差があったんですね。

大河ドラマの麒麟がくるでは信長に出会う前から二人は意気投合しているので、私はこの説は違うのではないかと思っています。

明智光秀を恨んでいたのではないか説

藤孝には異母兄の三淵藤英がいますが、三淵は光秀の坂本城で自害に追い込まれていて、このことを恨んでいたのでは?という説です。

これは結構ありそうな説だなと思います。

裏切った理由はこれだけではないと思いますが、こういうことが積もり積もって信頼できないと思われたのでは?と私は考察しています。

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まとめ

今回は細川藤孝と明智光秀の関係についてまとめてみました。

史実でも大河ドラマ「麒麟がくる」でも重要な人物となる細川藤孝ですが、光秀以上に頭が切れて要領のいい武将だということがわかりました。

こんな人が現代にいたら一躍有名人になっていたでしょう。

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