細川藤孝は将軍・足利義輝の幕臣から始まり、織田信長から豊臣秀吉と時代の変化に合わせて仕える主君を変えた武将です。
大河ドラマ「麒麟がくる」では明智光秀の盟友として登場して、光秀との関わりも深い人物です。
藤孝は経歴や能力はすごいのですが、あまり名が知られていません。
今回は細川藤孝の経歴や能力、逸話や評価など藤孝を深堀してみていきたいと思います。
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目次
細川藤孝の経歴
【キャストビジュアル公開】
細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)
眞島秀和#麒麟がくる pic.twitter.com/Y4wjWFU9pc— 【公式】大河ドラマ「麒麟がくる」毎週日曜放送 (@nhk_kirin) December 21, 2019
細川藤孝は1534年4月22日に三淵晴員の次男として誕生します。
1546年には将軍・足利義藤(のちの足利義輝)に仕えることになり、足利義藤の「藤」の字をもらい、名前を細川藤孝と名乗ります。
藤孝には兄・三淵藤英がいて、藤英も藤孝と同じく足利義輝に仕える幕臣として働きます。
1552年には従五位下・兵部大輔に叙任され、21歳で細川家の家督を相続します。
1562年頃には沼田麝香を正室に迎え、1563年に嫡男・細川忠興が誕生します。
藤孝は生涯側室・妾は持たず正室との間に7人の子を儲けます。
幕臣として幕府を支える藤孝に転機が訪れるのが1565年です。
主君の足利義輝が三好三人衆や松永久秀に暗殺される“永禄の変”が起こります。
藤孝は勝龍寺城にいた為、難を逃れましたが、義輝とその家族は暗殺・自害に追い込まれ、足利義輝の弟・覚慶(のちの足利義昭)は幽閉されてしまいます。
将軍家を存続させるため、藤孝は兄の三淵藤英らと共に幽閉された覚慶(足利義昭)を救出し、近江矢島にて還俗させます。
足利義昭を将軍に就任させるため、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って奔走しますが、京から逃げてきた身のためお金に苦しみ、灯籠の油にさえも手に入れられず、社殿から油をもらうこともあったほどだったそうです。
その後、越前に流れ着き朝倉義景に仕えていた明智光秀に出会います。
尾張の織田信長と面識のあった光秀が仲介に入り、足利義昭は織田信長と共に上洛し見事将軍に就任するのです。
京に戻った藤孝は勝竜寺城を三好三人衆の岩成友通から奪還し、それからは大和国や摂津国などで戦いました。
しばらくすると足利義昭と織田信長が対立するようになります。
兄・三淵藤英は足利義昭につきましたが、藤孝は信長に仕えることに決めます。
この裏切りに兄・藤孝は激怒したとか。
信長に仕えた細川藤孝は数々の戦に参戦し実績を残します。
戦の中でも有名なのが、織田信長を裏切った松永久秀との戦いです。
松永久秀が籠城した信貴山城を織田信忠・明智光秀と共に落としています。
そして今度は明智光秀が信長を裏切る本能寺の変が起きます。
それまで行動を共にし、仲の良かった光秀と藤孝。
光秀は藤孝が自分についてくれると思っていましたが、藤孝はその誘いを拒否します。
藤孝は信長に忠誠を誓い、頭を丸めて出家します。
名を幽斎と改め、家督を息子の細川忠興に譲り隠居します。
明智光秀が豊臣秀吉に破れた後、細川幽斎は豊臣秀吉に仕えます。
出家してからの細川幽斎は武将というより文化人として、千利休・津田宗及らと共に重用されていました。
武将として参加することもあったようで、九州征伐や梅北一揆の際には島津家蔵入地の改革を行ったりとバイプレーヤーとして活躍します。
豊臣秀吉に仕えていた細川幽斎ですが、秀吉が亡くなる前後にはすでに豊臣家を見限っていて家康に急接近していたと言われています。
関ヶ原の戦いでは当然のごとく東軍につきました。
晩年の細川幽斎は悠々自適な生活を送っていたとされていて、1610年8月20日に自宅で死去します。
享年77歳でした。
細川藤孝の能力
細川幽斎を一言で表すのであれば「文武両道」です。
剣術は剣豪の塚原卜伝から学び、弓術は弓の名門・波々伯部家の波々伯部貞弘や弓術家の吉田雪荷から弓術の印可を得るなど、剣術・弓術・馬術などの武道は一流から学ぶエリート。
礼儀・作法などの教養も高く武野紹鴎か茶道を学ぶなど、当時では最高の教養人と言われています。
これだけ能力の高かった細川藤孝なので、人の上に立っても十分力を発揮できそうですが、藤孝は決してリーダーにはなりませんでした。
能力や実力のある人を見つけて仕え、77歳まで生き延びた様子を見ると藤孝には先見性があり、分析力・情報収集力にも長けていたと言えます。
藤孝は文化人としての能力も高く、豊臣秀吉に認められ、秀吉側近の文化人として重用されました。
細川藤孝の逸話
細川藤孝には有名な逸話があります。
それは有名な関ヶ原戦い前の戦、田代城の戦いで起きました。
藤孝は古今伝授された人物でした。
古今伝授とは、平安時代に編纂された和歌集『古今和歌集』の中身を理解し、和歌の内容や解釈を人に伝えることを言います。
この古今伝授を唯一極めた男が細川藤孝だったのです。
言ってしまえば藤孝は歩く古今和歌集です。
古今和歌集を天皇家は代々継承していていました。
天皇家にとって古今伝授された藤孝はとても大切な存在でした。
ですがそんな藤孝の命が狙われる事態が起きます。
豊臣方と見限って徳川家康に就くことに決めた藤孝のいる田代城が、豊臣側の西軍15000人に包囲されてしまうのです。(田辺城の戦い)
藤孝は籠城し、粘り強く戦います。
この時正室の沼田麝香も具足をつけて戦っていたのだとか。
奥さん強い(笑)
この事態を耳にした時の天皇・後陽成天皇は「このまま藤孝が討ち死にしたら古今伝授が断絶する」と考え、攻撃をやめるよう西軍に命令します。
天皇の命を受けては攻撃ができないので包囲は解除。
藤孝は助かりました。
戦が止められるほど藤孝の存在は価値が高かったのです。
細川藤孝の評価
文武両道、戦をすれば功績を残す能力の高い人物だった藤孝。
さぞ周りの評価がいいのでは・・・と思いきや、意外とそこまで高くないようです。
「世渡り上手」「したたか」などというちょっと皮肉めいた評価が多いです。
その原因の1つが、家臣をコロコロと変えているところです。
藤孝は足利義輝→織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と生涯4人の将軍・武将に仕えています。
どれも主君が亡くなっているタイミングで変わっています。
だいたいの武将は主君が亡くなってもその家に仕え続けることが多いのですが、藤孝は主が亡くなったタイミングでそこに居続けるかどうかを考えます。
そして生き残れるほうをしっかり選んで乗り換えているのです。
ここが世渡り上手と言われる理由かと思います。
ですがこれは藤孝に先見の明があるということの証明でもあります。
藤孝は細川家を存続させることを第一に考えているように思います。
忠義よりも自分の家族、領地にいる民を守る。
そのために合理的に物事を考え、判断しています。
私はこの藤孝の考えはかっこいいなと思います。
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まとめ
細川藤孝は武将としても文化人としても非常に能力が高く、先見性のある人物です。
世の中にあまり知られていないのが不思議なくらいです。
藤孝は明智光秀の最大の謎“本能寺の変”にも関わってきます。
大河ドラマでは藤孝の動きもポイントになるかと思いますので、要チェックですね。
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