明智五宿老とは明智光秀が信頼していたとされる5人の家臣のことです。
斎藤利三はその中の1人です。
明智五宿老といえば明智左馬之助(秀満)や藤田伝吾が有名で、斎藤利三がどんな人物だったかを知る人は少ないのではないでしょうか。
実は斉藤利三は大奥で有名な春日局の父なのです。
今回はそんな斉藤利三を深堀していきたいと思います。
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目次
斎藤利三(明智五宿老)の経歴
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— 落ち武者(レキシル) (@rekishiru_site) March 24, 2020
斉藤利三は美濃の白樫城主・斎藤利賢の次男として生まれました。
斉藤家は美濃の守護・土岐氏の守護代を勤めていて、斎藤利三はその一族です。
美濃の斉藤というと斉藤道三が有名ですが、斎藤道三と血縁関係はありません。
斉藤道三は守護代だった斉藤家を乗っ取り、斎藤姓を名乗っていただけだったからです。
斉藤利三の前半生は史料が少なく謎だらけです。
明智光秀の家臣になるまで、斎藤利三は主君を何人か変えています。
最初は室町幕府の奉公衆だったのではないかと言われています。
斉藤利三の兄・石谷頼辰が将軍・足利義輝の奉公衆だったことと、妹が幕府の奉公衆だった蜷川親長だったことから、斎藤利三も奉公衆だったのでは?と言われています。
その後、斎藤利三は美濃の斎藤義龍(高政)に仕えます。
ですが斉藤義龍の嫡男・斉藤龍興が家督を継ぐと、離反するものが続出します。
美濃の有力家臣である西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄も斎藤龍興を見限った一人です。
斉藤利三もまた稲葉一鉄に続き斎藤龍興から離反し、今度は稲葉一鉄に仕えます。
今後こそうまくいくかと思いきや、稲葉一鉄とソリが合わなくなってきてしまいます。
そして稲葉一鉄と喧嘩別れをし、明智光秀に仕えることになります。
明智光秀に仕えることになったのは親戚だったからではないかと言われています。
斉藤利三の母は明智光秀の妹だったいう説があります。
いつから明智光秀に仕えたのかは正式な史料がないので不明ですが、1578年の連歌の会に主君の明智光秀と共に斉藤利三も参加した記録があるので、この頃には明智光秀に仕えていたことになります。
斉藤利三は明智左馬助(秀満)などと同じ明智五宿老と言われる、明智家の筆頭家老として活躍します。
明智光秀は織田信長から丹波国平定の命を受け、丹波平定を果たすと織田家ではかなり上位の家臣に成長していきます。
その家臣として仕えていた斉藤利三は丹波黒井城の城主になり1万石を拝領します。
そして明智光秀が主君の織田信長を裏切る“本能寺の変”が起こります。
なぜ明智光秀が本能寺の変を起こしたのか、その動機は明らかになっていませんが、一説には斉藤利三が関わっているのでは?と言われています。
斉藤利三が稲葉一鉄の家臣だった頃、主君の稲葉一鉄は織田信長の家臣でした。
しかし稲葉一鉄と仲が悪くなり明智光秀の家臣になりました。
しかも斉藤利三を介して稲葉一鉄の家臣であった那波直治も明智光秀の家臣になります。
怒った稲葉一鉄はこのことを主君の織田信長に報告し、織田信長は明智光秀に返すように命じたそうです。
この主君替えの出来事は「当代記」に“信長勘当の者”と書かれていて、織田信長も怒っていたことがわかります。
明智光秀は返すのを拒否しましたが、結果的に那波直治は稲葉家に戻ります。
斉藤利三はこのことがきっかけで織田信長から切腹を命じられます。
これが本能寺の変の4日前の出来事でした。
本当にこの出来事が、織田信長に謀反を起こした理由だったのかははっきりしていません。
ただ、理不尽な理由で自分の家臣に切腹命令が出ていたとしたら、家臣想いの明智光秀は何かしらのアクションを起こしていたのでは?と私は思います。
本能寺の変を決行した斉藤利三は本能寺で織田信長を討った後、二条新御所で織田信長の嫡男・信忠を襲撃し、見事勝利します。
しかし本能寺を焼き討ちしたものの、肝心の信長の首が見つかりませんでした。
さらに味方になってくれると思っていた細川幽斎(藤孝)、筒井順慶にも協力してもらえず、兵力を揃えることが出来ませんでした。
明智光秀が裏切り、織田信長が討たれた一報を聞きつけた豊臣秀吉が京へ戻り明智光秀と対立します。
斉藤利三は先鋒として戦うも明智軍は敗戦。
斉藤利三は逃走しますが捕まってしまい、斬首されてしまいます。
斎藤利三(明智五宿老)の正室
斉藤利三は織田信長の配下になる前の美濃時代に妻をもらっていたと言われています。
妻は斎藤道三の娘だったのではないかとか、稲葉一鉄の姪ではないかなどの説がありますが、確証はありません。
斎藤利三(明智五宿老)の後妻
斉藤利三は後妻として稲葉一鉄の娘を迎えています。
二人の間には斎藤利宗、斎藤三存、末娘の福が生まれます。
この福がのちに徳川家光の乳母になり大奥を取り仕切る春日局です。
斎藤利三(明智五宿老)の子は春日の局!
天正10年(1582)6月17日(旧暦)、斎藤利三が処刑🙏。明智光秀の家老でした。幕府奉公衆出身の利三は斎藤義龍、稲葉一鉄に仕えて後、光秀の重臣に。丹波黒井城主を務めます。山崎の戦い後、潜伏先の近江で捕縛。なお娘の福は、のちに春日局となりました。#戦国武将かるたレジェンド48 #斎藤利三 #光秀 pic.twitter.com/9A2Ygo65HS
— 【公式】戦国武将かるたレジェンド48 (@ByEiylIMBRDr5kf) June 16, 2020
斉藤利三の娘・お福はのちに春日局となります。
春日局は大奥を改革した人として有名で、ドラマ化もされました。
福は4歳の頃に父親を失い、稲葉家の養女になり稲葉正成の後妻となります。
夫が主君を裏切ったことで浪人の身となり、服は京の母のもとへ逃げます。
そこで二代目将軍の徳川秀忠に子供が生まれ乳母を必要としていることを知ります。
福もちょうど四男を産んだばかりだったのがよかったのか、京都所司代であった板倉勝重の推挙を受けて江戸へ行くことへ。
お福はのちの三代目将軍の徳川家光の乳母として面倒をみることになります。
しかし弟・国松に徳川家を継がせようとしていることを知り、福は家光が次の将軍になれるよう全精力を注ぎます。
福の働きのおかげで国松とのお世継ぎ争いに勝ち、徳川家光は20歳で三代目将軍となりました。
その功績から福は天皇から春日局という称号を与えられ、大奥の制度改革を行っていきます。
例えば、男色だった徳川家光が好みそうな女性を側室に迎え、また彼女たちにも側室としての教育を行ってから徳川家光の前に出しました。
そのおかげで徳川家光は女性に目覚め、無事後継ぎも生まれました。
春日局の行動の力のおかげで徳川家は何代も続いていきました。
春日局は現代でいうところのバリバリのキャリアウーマンです。
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まとめ
主君を何回か変えた斉藤利三でしたが、明智光秀になってからは最期まで主君とともに戦い続けました。
明智光秀との信頼関係の濃さが伺えます。
本能寺の変の後、斎藤利三は亡くなりますが、娘の福は春日局として徳川幕府に影響を与えます。
大河ドラマ「麒麟がくる」でも斉藤利三は明智五宿老の一員として活躍してくれると思います。
ドラマの活躍に期待ですね。
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