現在の三菱財閥を一代で築き上げた岩崎弥太郎。
同時代に活躍し、2021年の大河ドラマ等でも話題になった渋沢栄一は、次々と日本を代表する会社を設立させるも、自ら経営から身を引き、株式も所有しませんでした。
一方の岩崎弥太郎はというと、破竹の勢いで海運業を成功させ、ベンチャー精神を持って日本を代表する財閥を築き上げていったと言われています。
今回はそんな岩崎弥太郎についてクローズアップしていきたいと思います。
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目次
岩崎弥太郎はどのようにして財産を築いた?
出典:wikipedia
まずは岩崎弥太郎がどのように財産を築いたかを見ていきましょう。
岩崎弥太郎は1835年、現在の高知県安芸郡で藩士の身分を失った元武家の家庭に生まれます。
岩崎弥太郎は10代の頃から江戸で治国形成を学びますが、1855年に実家に戻ると、父・弥次郎が庄屋の手下と殴り合いになり、大けがを負います。
岩崎弥太郎は奉行所に訴えるも認められず、奉行所に落書きをし、投獄されます。
この時に同室の囚人から算術を学び、商売を教わります。
やがて出獄後は、藩の吉田東洋の塾に入門し、下級役員として抜擢されます。
その後、明治維新になり、岩崎弥太郎は土佐の藩士が設立した九十九(つくも)商会で海運業を始めました。
1871年の廃藩置県を経て、九十九商会は藩から独立し、1873年に三菱商会に改称します。
その時の岩崎弥太郎は気性が激しく、周囲に攻撃的だったと言われています。
そして三菱商会も、まさに経営者である彼の性格のように勢いがあったと言われています。
翌1874年の台湾出兵では、英国や米国の汽船会社が日本兵の輸送を拒否する中、大隈重信からの要請で、「所期奉公」すなわち「事業を通じ、物心共に豊かな社会の実現に努力すると同時に、かけがえのない地球環境の維持にも貢献する」という精神で、岩崎弥太郎だけが政府からの依頼を引き受けました。
その後も政府の要人・大久保利通からも信頼され、1877年の西南戦争の軍事輸送も担い、政府からも大きな援助を受けることになります。
岩崎弥太郎自身のハングリー精神や決断力とあいまって、三菱商会は日本を代表する海運業者となり、やがて大財閥・三菱の誕生につながっていきます。
岩崎弥太郎は政商としての才能があった
先述したように、大変革の明治時代に莫大な資産を築いた岩崎弥太郎。
彼のその活躍は「政商」と呼ばれています。
「政商」とは、政治家や官僚とのコネクション(官民同士の癒着)で事業を推進していった人物のことを言います。
江戸時代に「御用商人」と呼ばれ、明治時代に生まれた岩崎弥太郎の三菱財閥をはじめ、三井、住友、鴻池などの財閥も広義で「政商」に含まれます。
岩崎弥太郎は高知県の元武家の家庭に生まれた後、自らの激しい気性を生かして、西洋諸国に対抗するため、破竹の勢いで近代日本産業や資本主義の発展に力を尽くしました。
今日、「政商」と言うとネガティブな印象を持たれることもありますが、今の私たちの生活があるのも、明治時代に活躍した岩崎弥太郎たち「政商」の活躍があったからこそだと言えるかもしれません。
ちなみに、同時代に活躍した「政商」として有名な人物としては、岩崎弥太郎の他にも、東の渋沢栄一、西の五代友厚なども挙げられます。
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まとめ
今回ご紹介した岩崎弥太郎も、大河ドラマで有名となった渋沢栄一と同様に私たちの生活に密接に関わりがあり、身近に感じられる方も多くいらっしゃるかもしれません。
明治時代という社会的・経済的に大きな変革期において、自らの経営する会社の方針に対して強い想いを持っていたからこそ、近代の日本経済を牽引し、今日の日本につながる経済発展を生み出すことができたのだと言えるかもしれません。
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