鎌倉幕府の将軍と執権の違いは?歴代の人物の簡単まとめについても

幕府と言えば将軍はつきものですよね。

でもみなさんは鎌倉幕府の将軍を何人知っていますか?

初代の源頼朝は知っていても、それ以降は分からない方も多いのではないでしょうか?

今回はそんな鎌倉幕府の将軍と、政治の実権を握っていた執権についてご紹介したいと思います。

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目次

鎌倉幕府の将軍と執権の違い

江戸幕府の将軍は初代の家康をはじめとして、その孫の家光や5代目将軍綱吉、8代目吉宗、最後の将軍となった慶喜など有名な人物がいます。

しかしその一方で鎌倉幕府といえば…?

初代の頼朝や続く頼家・実朝までは知っていても、それ以降は授業でも聞いた覚えがないのではないでしょうか。

どうしてこのようなことになるのかと言えば、それは実朝以降の鎌倉幕府の将軍が単なる“お飾り”であり、歴史に残るような特筆すべき活動を行っていないからです

では指導者である将軍が“お飾り”だったのだとしたら、公家にとって代わり全国政権となっていた鎌倉幕府を動かしていたのは誰?ということになります。

それが北条氏によって代々受け継がれた「執権」という職です。

執権とは元々は将軍の政務を補佐する役職のことを指していて、室町幕府では管領、江戸幕府では家老と呼ばれた役どころです。

執権の始まりについては諸説あるものの、北条時政が実朝を3代将軍に擁立したときに就任したものと言われています。

執権は政所(現在の皇室における宮内庁のようなもの)の長である別当も兼ね、さらに2代目執権になった義時の時代に軍事を司る侍所の長も兼ねるようになり、幕府における最高職となりました。

また連署という役どころもあり、公文書に執権と連名で署名したためその名が付きました。

連署は執権を補佐する役割を持ち、こちらも北条一門で独占的に継承されました。

実朝の暗殺で途絶えた頼朝の血統の代わりに、鎌倉幕府では摂関家や皇族から名目上の将軍を迎えることとなります

そんな政治や軍事に不慣れなお飾りの将軍を補佐するという形で、執権が幕政の実権を握ったのです。

鎌倉幕府における将軍と執権の関係について、お分かりいただけましたでしょうか?

将軍と執権の歴代人物まとめ

頼朝→頼家→実朝と3代目までは源氏将軍の系統でしたが、4代目以降は摂関家や皇族から迎えられた摂家将軍・宮将軍が9代目まで続いてゆきます。

4代目将軍となった藤原頼経は遠縁ながらも頼朝の血筋であり、2代頼家の娘であり政子の後継者として人望を集めていた竹御所と結婚。

源氏将軍の血脈が保たれるかと思われた矢先に、竹御所は死産の末に自らも命を落とし頼朝の血はここで途絶えます。

この頃、執権は3代目北条泰時、4代目北条経時、5代目北条時頼へと北条氏の独占で受け継がれていきます。

泰時は「御成敗式目」を制定して争いごとの絶えなかった武家社会に、順守すべき法を創設することで指導体制の強化に努めました。

しかしそれでも権力争いを発端とする武家の騒乱はやまず、北条家も自身の地盤を確立するため争いに参加してゆくこととなります。

4代目執権の経時は4代目将軍である藤原頼経を、5代目執権の時頼は5代目将軍である藤原頼嗣を、それぞれ京都に追放しています。

これ以降、将軍は皇族が務めるようになり、実権のない象徴として続いてゆくことになります。

5代目執権の時頼は病気によりその職を辞し、北条長時が後を継いで6代目となりますが、これは時頼の子である北条時宗がまだ幼かったこともあり、その間をつなぐためのものでした。

その長時も病気のため職を辞し、未だ幼かった時宗の代わりに高齢の北条政村が7代目執権となります。

この時期に5代目執権であった時頼は職を辞しながらも隠然とした権力を保持し続けていて、北条家の家督を継ぐ得宗が執権を凌駕して権力をふるう「得宗専制」に移行してゆくことになります。

将軍 執権
初代 源頼朝(在位6年6ヶ月) 北条時政(得宗家)
二代 源頼家(在位1年2ヶ月) 北条義時(得宗家)
三代 源実朝(在位15年4ヶ月) 北条泰時(得宗家)
四代 藤原頼経(在位18年3ヶ月) 北条経時(得宗家)
五代 藤原頼嗣(在位7年10が月) 北条頼時(得宗家)
六代 宗尊親王(在位14年3ヶ月) 北条長時(極楽寺流)
七代 惟康親王(在位23年2ヶ月) 北条政村(政村流)
八代 久明親王(在位18年10ヶ月) 北条時宗(得宗家)
九代 守邦親王(24年9ヶ月) 北条貞時(得宗家)
十代 北条師時(宗政流)
十一代 北条宗宣(大仏流)
十二代 北条煕時(政村流)
十三代 北条基時(極楽寺流)
十四代 北条高時(得宗家)
十五代 北条貞顕(金沢流)
十六代 北条守時(赤橋流)
十七代 北条貞将(金沢流)

 

執権職の形骸化と得宗専制

得宗とは北条一門の中で家督を継いだ家のことを指し、5代目時頼までは得宗と執権は同一人物でした。

しかし時頼が職を辞して出家してもなお幕政に影響を及ぼす存在となり、得宗が執権の力を上回るようになっていきました。

時頼の息子であり8代目執権となった時宗の時代に、蒙古襲来という国難が発生しました。

これ以降、得宗を中心にして北条一門と御家人が集まる「寄合」という会合が開かれ、ここでの決定が幕政を動かすようになっていきます。

これを「得宗専制」と呼んでいます。

北条貞時が9代目執権となると、元寇後の国内の混乱や御家人の内紛によって、執権は有名無実化し幕政は乱れてゆきました。

さらに貞時が政務を放棄してゆくようになり、寄合の構成員である寄合衆が主導権を発揮してゆくようになります。

その後は内管領の長崎氏や外戚の安達氏などの寄合衆によって、先例を踏襲するばかりの停滞した政治体制となってゆきました。

得宗の立場も将軍や執権の職と同様に、実質的な力を持たない“お飾り”となっていきました。

その後、寄合衆よる形式主義の横行や、権力とお金を独占することへの不満が国内で高まっていきました。

国内の騒乱に対して効果的に対処できなくなった鎌倉幕府への信頼は失墜し、1333年の足利尊氏や新田義貞による倒幕へとつながってゆきます。

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まとめ

鎌倉幕府における将軍と執権について紹介してきました。

お分かりいただけたら幸いです。

頼朝の血筋は3代目で途絶え、それ以降はお飾りであった“将軍”。

北条氏が頂点に立ち幕政の実権を握った“執権”。

その体制の礎を作ったのが義時であり、その姉で「尼将軍」と呼ばれた政子でした。

その執権も得宗専制によって形骸化し、その得宗専制もやがて…そんな生き馬の目を抜くような権力争いが続いても、幕政の象徴としての将軍は存在し続けました。

実力がものを言う武家社会でしたが、やはり将軍という立場には家柄・血筋が重要でした。

現在での皇室と国会の関係のようなものと考えると、私たちにも感覚的に理解しやすいと思います。

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