大河ドラマでも明智家の家臣としては序盤から登場している藤田伝吾(藤田行政)。
藤田伝吾は明智光秀が最も信頼していた家臣と言われていますが、実は伝吾に関する史料がかなり少なく謎の多い人物でもあります。
今回はそんな伝吾が登場する数少ない史料を元に、伝吾の経歴や最期、光秀の関係を深堀していきたいと思います。
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目次
藤田伝吾(藤田行政)の経歴
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藤田伝吾の出自、出生は不明ですが、光秀の父・明智光綱の代から仕えていたのではないかと言われています。
藤田伝吾は明智五宿老と呼ばれる光秀が信頼していた5人の家臣の中の1人でした。
そんな伝吾がどんな働きをしていたのかを分かる限りの史料で見ていきます。
藤田伝吾に関する記録が多くみられるのは主君である明智光秀が織田信長に仕えてからです。
藤田伝吾は明智光秀と共に様々な合戦に参加していました。
その中の1つに足利義昭と織田信長の戦いがあり、光秀は義昭を支援する山本氏を攻めます。
その際に光秀は静原山城という城を建てます。
藤田伝吾はこの静原山城の城主になっています。
「多門院日記」という奈良にある興福寺の多聞院で僧侶3代にわたって記された日記では藤田伝吾が筒井順慶と光秀の仲介役をしていたという記録が残されています。
筒井順慶とはもともと大和国(今の奈良県)の戦国大名でした。
ですが京の松永久秀の侵略を受け、久秀と争っていました。
松永久秀は足利義昭の直臣になり、戦で獲得した領地を好きにしていいというお墨付きをもらっていました。
そのため大和国に攻め込んできていたのです。
ですが明智光秀の働きかけによって筒井順慶は織田信長の家臣になります。
そして光秀の仲介により松永久秀とも和睦するのです。
これがきっかけで筒井順慶は光秀の与力という立場になります。
与力とは身分は光秀と同じ信長の家臣なのですが、戦の時には光秀の指揮に従うという関係です。
光秀は信長の命で丹波攻めや雑賀攻めなど領地獲得のために各地を転々としていたので、伝吾が筒井順慶と仲介役をしていたと言われています。
藤田伝吾は明智光秀から信頼されていた家臣だったため、本能寺の変の計画も一番に光秀から打ち明けられています。
明智光秀は毛利攻めの羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)を支援するために出陣する途中、信長を討つ決意を伝えたと言われています。
その計画を打ち明けられたのは明智秀満(明智左馬之助)、明智光忠、藤田伝五(藤田行政)、斎藤利三です。
藤田伝吾は本能寺の変では明智光忠を大将とする第二陣の将として、溝尾茂朝らと共に4000名を率いて戦ったと『信長公記』に記録が残っています。
本能寺の変の後、軍勢を固めるために光秀は親しかった細川藤孝と筒井順慶に協力を頼みます。
光秀もこの2人は協力してくれると思っていたのでしょう。
ですがまさかの拒否。
2人とも首を縦に振ってくれません。
筒井順慶は近江まで兵を出したものの、動きが消極的でした。
そんな順慶を説得するために奔走したのが藤田伝吾だったと言われています。
「多聞院日記」には伝吾が説得に向かうも同意が得られず、大和国木津まで引き返したが順慶に呼び戻されてまた説得をしたという記録が残っています。
細川藤孝は再三お願いしても一切応じなかったと言われていますが、筒井順慶はかなり迷っていた様子が伺えます。
ですが説得も空しく、筒井順慶は秀吉側についてしまうのです。
備中高松で毛利攻めをしていた秀吉は、信長が光秀の謀反によって自害した一報を受けると信じられないスピードで大軍勢を引き連れ京へ戻ってきます。
これが有名な中国返しです。
そして明智光秀軍と対立するのです。
藤田伝吾(藤田行政)の最期
中国返しで京へ戻ってきた秀吉軍と光秀軍が対立する山崎の戦いが勃発します。
藤田伝吾は光秀軍の本陣にいたとされ、兵の数は5000ほどと言われています。
明智軍の右翼隊として奮闘した伝吾ですが、形勢不利とみて6箇所を負傷しながら淀城まで退却します。
藤田伝吾が退却したのは光秀が勝竜寺城に退却したのを見て、秀吉が勝竜寺城を攻撃した時にその背後をつく作戦だったのではと言われています。
ですが、退却した翌日に勝竜寺城はあっさり落城してしまいます。
勝龍寺城の落城と光秀自害という一報を聞き、ここまでと思った藤田伝吾は自害します。
明智光秀との関係
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伝吾が登場する史料や働きを見て行くと、藤田伝吾は光秀からの信頼がかなり高かったことがわかります。
藤田伝吾は光秀と戦に出るときは前線を任されることが多かったことから武将としての能力が高く、またその能力を光秀も認めていたと言えます。
筒井順慶の仲介役を務めていたのも信頼が高くないとできません。
しかも光秀と順慶は伝吾の仲介でお互いをよく知るようになったと言われています。
コミュニケーション力も高かったのでしょう。
そして信長を裏切る本能寺の変の計画を一番に話したというエピソードが、伝吾を信頼していた何よりの証拠ですよね。
最期まで光秀のため、明智家のために戦う姿から光秀との関係はずっと良好で、互いに信頼し合っていたのだと思います。
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まとめ
藤田伝吾に関する史料はほとんど残っていないため、経歴が少ないですが史料を見ると武将としての能力が高く、主君に誠実な人物だったと言えます。
大河ドラマ「麒麟がくる」では序盤から登場しています。
ドラマではどんな人物として描かれるのか、そしてどんな最期を迎えるのか楽しみです!
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