渋沢栄一と岩崎弥太郎の関係や共通点は?思想や考え方の違いの比較も

NHK大河ドラマ青天を衝けで吉沢亮さんが演じる主人公、渋沢栄一

すでに放送が始まっており、ご覧になられた方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

一方、今の三菱財閥を一代で築き上げた岩崎弥太郎

『青天を衝け』でのキャストは本日現在まだ発表されていませんが、どなたが演じられるのか気になるところです。

そんな渋沢栄一岩崎弥太郎は、仕事に対する向き合い方が真逆だったと言われています。

性格も真逆だと言われる二人ですが、それぞれどのような思想を持って近代日本の発展に貢献したのか。

今回は渋沢栄一と岩崎弥太郎の二人の関係や共通点や違いについて、クローズアップしていきたいと思います。

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目次

渋沢栄一と岩崎弥太郎の関係や共通点

明治時代を代表する名経営者だった渋沢栄一と岩崎弥太郎ですが、両者とも会社は国家ありきで成り立つものという精神を持ち、国際感覚に秀でていたと言われています。

そんな二人の共通点を語る上で欠かせない人物が、大隈重信です。

岩崎弥太郎を経済面で後ろから支えていたと言われる大隈重信ですが、渋沢栄一とも深い交流があったと言われています。

後述しますが、大隈重信の説得があったからこそ、渋沢栄一は大蔵省に入省することを決意し、大蔵権大丞(おおくらごんのたいじょう)として国立銀行条例の制定を行ない、第一国立銀行を設立しました。

また、渋沢栄一は1878年に向島の料亭で岩崎弥太郎に呼ばれ、岩崎弥太郎の個人主義的な経営理念に反対し、ケンカ別れをしたと言われていますが、翌年、東京海上保険会社(現・東京海上日動火災保険)の設立に二人が協力したという事実もあります

新たな時代の幕開けとも言える明治初頭、日本は社会的にも経済的にも大きな変革期で、次々と新しい会社が生まれていきました。

両者ともベクトルは違いましたが、近代日本を発展させていくという同じビジョンがあったからこそ、その違いが相乗効果を生み出し、結果的に日本社会や経済の発展につながっていったと言えるかもしれません。

渋沢栄一の思想や考え方

ここで渋沢栄一の生い立ちを振り返ってみましょう。

1840年に現在の埼玉県深谷市で豪農の家庭に生まれた渋沢栄一は、10代のうちから尊王攘夷の思想に傾倒し、幕末の混乱の中で一橋慶喜に仕えます。

パリ万博使節団に随行し、ヨーロッパの先進的な社会を目の当たりにした渋沢栄一。

やがて帰国後は、大隈重信の説得を受け大蔵省に入省。

大蔵権大丞に任ぜられ、官僚として国立銀行条例制定や第一国立銀行(現・みずほ銀行)を設立します。

その他、日本初の製紙会社・抄紙会社(現・王子製紙)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、日本鉄道会社(現・JRグループ)、日本郵船会社(現・日本郵船)、東京瓦斯会社(現・東京ガス)など500社もの会社の設立に関わり、日本初の「株式会社」を設立した人物でもあります。

また、会社以外にも東京高等商業学校(現・一橋大学)や東京養育院(現・東京都健康長寿医療センター)など600もの教育機関、病院、団体などの設立・運営に携わったとされています。

渋沢栄一の恩恵を受けていない人はいないのではないかというくらい、現代の私たちの生活に密接に関係しています。

500社もの会社の設立に関わったのですから、普通は利益を自らのものにしたいと思うのが人の性。

しかし、渋沢栄一は設立に関わった会社の株式を所有せず、経営が軌道に乗ると、自ら経営から身を引いたのだそうです

この背景には、ヨーロッパでの知見を元に日本の近代産業を早急に発展させようと、ただ一心に日本国家の発展に尽力したいという渋沢栄一自身の思想があったと言われています。

岩崎弥太郎の思想や考え方

一方の岩崎弥太郎は、渋沢栄一よりも少し早く1835年、現在の高知県安芸郡で藩士の身分を失った元武家の家庭に生まれます。

岩崎弥太郎は10代の頃から江戸で治国経世を学びますが、1855年に実家に戻ると、父・弥次郎が庄屋の手下と殴り合いになり、大けがを負います。

岩崎弥太郎は奉行所に訴えるも認められず、奉行所に落書きをし、投獄されます。

しかし、この時に同室の囚人から算術を学び、商売を教わります。

やがて出獄後は、藩の吉田東洋の塾に入門し、下級役人として抜擢されます。

その後、明治維新になり、岩崎弥太郎は土佐の藩士が設立した九十九(つくも)商会で海運業を始めます。

廃藩置県を経て、九十九商会は藩から独立し、1873年に三菱商会に改称します。

その時の岩崎弥太郎は気性が激しく、周囲に攻撃的だったと言われています

そして三菱商会も、まさに経営者である彼の性格のように勢いがあったのだそうです。

翌1874年の台湾出兵では、英国や米国の汽船会社が日本兵の輸送を拒否する中、大隈重信からの要請で、「所期奉公」の精神で、岩崎弥太郎だけが政府からの依頼を引き受けます。

その後も政府の要人・大久保利通からも信頼され、1877年の西南戦争の軍事輸送も担い、政府からも大きな援助を受けることになります。

岩崎弥太郎自身のハングリー精神や決断力とあいまって、三菱商会は日本を代表する海運業者となり、やがて大財閥・三菱の誕生につながっていきます。

渋沢栄一と岩崎弥太郎の思想や考え方の違いを比較

渋沢栄一と岩崎弥太郎の生い立ちや性格、社会的な功績を見てみると、真逆な点が見て取れると思います。

次々と日本を代表する会社を設立するも、自ら経営から身を引き、株式を所有しなかった渋沢栄一。

破竹の勢いで海運業を成功させ、ベンチャー精神を持って日本を代表する財閥を築き上げていった岩崎弥太郎。

ちなみに1882年、渋沢栄一にとって岩崎弥太郎の海運業における専横が許せなかったことから、彼に対抗して渋沢栄一は井上馨や三井財閥とともに共同運輸を設立しました。

岩崎弥太郎率いる郵船汽船三菱会社と渋沢栄一率いる共同運輸は2年半にわたって闘いを繰り広げますが、結果的に共倒れ必至となり、合併。

現在の日本郵船が誕生します。

異なる二人の思想や考え方が、奇跡的に一つになった瞬間でした。

対照的な経営方法でそれぞれの事業を拡大した渋沢栄一と岩崎弥太郎。

先述しましたが、明治時代という社会的に大きな変革期で、会社の経営方針に対して異なるベクトルを持っていたからこそ、近代の日本社会や経済に大きなうねりを生み出し、結果的に近代日本の発展を支えていったと言えるかもしれません。

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まとめ

今回の記事では、渋沢栄一と岩崎弥太郎の共通点や考え方の違いを取り上げました。

両者とも現在の私たちの生活に密接に関わりがあるので、身近に感じられる方もいらっしゃるかもしれません。

あなたは渋沢派、岩崎派、どちらの経営方針に親近感が湧きますか?

ちなみに余談ですが、今回ご紹介した渋沢栄一と岩崎弥太郎の邸宅は、お隣さんと言わんばかりに目と鼻の先にあるという、不思議な共通点もあります。

現在の東京・王子にある渋沢史料館(旧渋沢家飛鳥山邸)と、同じく駒込にある六義園(岩崎家駒込別邸)。

いずれも現在の本郷通り沿いにあり、徒歩で移動できる距離にありますので、休日は渋沢栄一と岩崎弥太郎に思いを馳せ、それぞれの施設を巡ってみるのはいかがでしょうか。

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