妻木煕子の生い立ちや室の名前は?髪を売って明智光秀を支えたエピソードとは?

明智光秀というと、どんな人を思い浮かべますか?

「頭がよく、合理的で、武術にも優れ、伝統を重んじ、教養の高い人」あたりが一般的なイメージではないでしょうか?

光秀に教養の高い人のイメージがあるのは、光秀が連歌(れんが)にも通じていたことがひとつの理由でもあると思います。

「本能寺の変」の9日前に京都の愛宕山西之坊威徳院(いとくいん)の連歌会で光秀が詠んだ歌は、あまりにも有名で、どのドラマでも必ずこのシーンは登場します。

では、連歌とはいったい何でしょうか?

連歌とは、短歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)との唱和、あるいは上の句と下の句とを一人または数人から十数人で交互に詠み連ねる詩歌の形態のひとつ。

形式としては 100句続ける百韻が基本です。

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目次

妻木煕子の生い立ち

後に明智光秀の妻となる妻木煕子は1530年ごろに妻木範煕(妻木広忠との説もある)の娘として生まれます。

妻木家は、明智家と同様に土岐氏の分家であると言われており、明智家の家臣として働いていたこともあった武家で、妻木城(現在の岐阜県土岐市)の城主の家系でもありました。

それ故、妻木家は明智家と非常に深い縁にある家系でした。

 

妻木煕子は、非常に美しい女性であったと言われています。

そして、1945年ごろ(煕子10代のころ)当時20代半ばの光秀と結婚します。

煕子と光秀は終生、仲睦まじく、煕子が亡くなるまで生活を共にします。

斎藤義龍の軍に明智家が籠城していた明智城は責められ、光秀は美濃を去ることになりますが、光秀は、身重の煕子を背負って逃れたと伝えられています。

 

煕子の死期については、主に二つの説が語られています。

病死説

1576年、信長の命を受けた光秀は石山本願寺と戦うために、天王寺の戦いに参加していましたが、激しい戦いで過労のために体調を崩します。

煕子は光秀を懸命に看病し、光秀は体調を戻したものの、看病疲れで今度は、煕子の方が倒れてしまいます。

光秀は、盟友である細川藤孝の従兄弟にあたる吉田兼見(よしだかねみ)に平癒の祈祷を依頼し、『兼見卿記』によれば吉田兼見は、10月24日に光秀の使者により、煕子の病が治ったとの報告を受け、また、11月2日に兼見は煕子を見舞っています。

一旦は体調が回復したように見えた煕子でしたが、同じ月に病状が悪化し、亡くなります。

享年36才であったという説や42才、 46才であったという説もあります。

 

自害説

もうひとつの説は、光秀が秀吉との山崎の戦いで敗北し当時の居城, 坂本城に帰る途中、百姓か山賊に殺害されたとの知らせを受け、坂本城落城前に自害したというものです。

滋賀県大津市の西教寺が明智家、妻木家の菩提寺となっており、煕子はここで眠っています。

 

髪を売って光秀を支えたエピソードとは?

1556年4月道三が息子・義龍(よしたつ)に「長良川の戦い」で敗れると、義龍軍は道三側であった明智家の居城, 明智城を攻め、明智城は落城します。

落城前に叔父明智光安の配慮で逃がされた明智光秀でしたが、その後どうしたのでしょうか?

流浪するしかなかった。

ということで間違いはないのでしょうが、後に光秀が信長と将軍となる足利義昭を結び付ける役割を果たすわけですから、その後もかなり頑張ったのだと思います。

 

後の史実につながるのは、やはり、美濃を去った後、光秀は越前の朝倉義景に仕えたという説が一番自然に思われます。

いずれにしても、裕福ではなかったと推測されます。

明智光秀と言えば、連歌をやっていたことが、よく知られていますが、連歌の会のホスト役は、メンバーの持ち回りで行われていました。

ホスト役の順番が回ってくると開場や酒宴の用意や負担をしなければなりません。

光秀は、朝倉家の家臣を中心とした連歌会のメンバーであったと言われています。

光秀にホスト役が回ってきた際に、光秀は悩んでいたようです。

そんな光秀の姿を見た煕子が光秀のために自らの黒髪を売ってまでして費用を工面したと伝えられています。

妻木煕子の室の名前

光秀の妻、妻木煕子(つまき ひろこ)は、現代になって言われるようになった俗称であると言われています。

煕子の父親の妻木範熙(つまき のりひろ)の名前の一文字を取って、煕子(ひろこ)としたようですが、きっかけは、三浦綾子の小説「細川ガラシャ夫人」で煕子の名で語られたからとも言われています。

煕子の室の名前は、お牧の方です。

伏屋姫と呼ばれることもしばしばあったようです。

光秀と煕子の間には、3男4女が誕生し、三女の珠(たま)も煕子との間の子であったと言われています。

珠(たま)は、後に光秀の盟友と言われた細川藤孝(ほそかわ ふじたか)の嫡男・細川忠興(ほそかわ ただおき)に嫁ぎますが、後にキリスト教の改宗し、ガラシャと名乗ります。

 

妻木煕子は光秀との婚姻前に疱瘡(ほうそう)にかかってしまった?

10代で光秀との婚姻が決まった煕子は婚姻前に疱瘡(ほうそう)(天然痘)にかかってしまいます。

病そのものは、治ったものの顔の傷(あばた)は残ってしまいました。

明智家との縁談を破断にしたくなかった煕子の父親は、顔の傷がある娘を嫁がせることは光秀に失礼であると感じ、また、煕子も同様に感じていたため、煕子似の妹を嫁がせようと光秀に対面させます。

 

妹と対面した光秀は、かって煕子と対面した際にあったはずのほくろがないことに気づき、別人であることを知ります。

光秀は、煕子の父親に申し出て、煕子と添い遂げたい旨を伝えます。

理由は、容貌は歳月で変わるもの, 変わらぬものは心の美しさだからということでした。

そして、予定通り光秀と煕子は無事婚姻することになったのです。

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まとめ

光秀の正室, 妻木煕子は、10代で20代半ばであった明智光秀に嫁ぎます。

妻木家, 明智家は共に美濃の土岐家の分家であり、重臣の家系で、縁の深い両家でした。

煕子は光秀に嫁ぐと、献身的に光秀に尽くし、亡くなるまで添い遂げました。

多くの書簡のなかで、光秀と煕子は仲睦まじかったことが伝えられています。

光秀の人生は信長や秀吉, 家康のように順風満帆なものではありませんでした。

光秀は美濃を追われたこともありましたし、経済的に豊かでなかった時期もありました。

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