明智光秀と織田信長は仲が悪くはなかった?出会いや関係と本能寺の変を起こした理由を考察

今年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主役は明智光秀です。

この明智光秀を語る時に外せないのが織田信長ですよね。

織田信長は家臣である明智光秀に裏切られ本能寺の変で自害しました。

本能寺の変はまだ謎が多いのですが今までずっと明智光秀が本能寺の変を起こしたのは信長に個人的な恨みがあったからではないかと言われてきました。

信長はみんながいる前で光秀を足蹴りした、という話は有名で、数年前の大河ドラマ「真田丸」でもその様子が描かれていました。

ですが最近では、織田信長と明智光秀は仲がよかったのではないか?と言われています。

本当のところどうだったのでしょうか?

今回は明智光秀の出会いと二人の関係をお話しするとともに、なぜ光秀が本能寺の変を起こしたのか、考察していこうと思います。

スポンサーリンク

目次

明智光秀と織田信長は仲が悪くなかった!

今までだと織田信長と明智光秀は仲が悪く、信長は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と仲がよかったというイメージを持ってる人が多いと思います。

ですが、これ実は逆で光秀は信長に恩義を感じていたと言われています

光秀は信長に仕えるまでに斉藤道道三や朝倉家などに仕えていましたが光秀の能力を認めて存分に発揮させてくれたのは信長だけだったそうです。

信長もまた、光秀に重要なポストを任せていたことから光秀のことを信頼していたと考えられます。

最終的には光秀は本能寺の変で信長を裏切ってしまうのでどこかでこの信頼関係が壊れた可能性はありますが、最初から二人の仲が悪かったわけではなかったようです。

 

ではなんで信長は光秀に厳しく当たっていたようなイメージがあるのか?というと、噂話が広まったせいなのです。

光秀の恨みを買い、秀吉が信長に気に入られていたという話は、秀吉が演出した作り話だったという説があります。

秀吉は本能寺の変の後、明智光秀を討って天下を取るのですが、その天下取りの宣伝用に書かせた「惟任退治記」があるのですが、ここで信長と光秀の不仲が強調されているのです。

しかも信長と光秀の不仲を象徴する有名な話も実は間違って伝わっています。

光秀が信長に恨みを持ったのではないかと言われる代表的な説といえば人前で足蹴りされた話ですよね。

みんながいる前で足蹴りされ恥をかかされたことに光秀が怒ったのでは?と言われているのですが、実はこれ、実は人前ではなく密室で行われていたそうなんです。

なんで密室で起こったことが多くの人の耳に入ったのかというと、信長の近くにいた他の家臣が目撃し他の人に話したことで尾ひれがついて広まっていったのが原因だったようです。

こんな感じで信長と光秀の不仲説は伝言ゲーム的に事実と違って伝わっていったというわけです。

 

明智光秀と織田信長の出合い

そもそも明智光秀は織田信長とどうやって出会って家臣になったのでしょうか?

二人の出会いについて詳しく書いていきますね。

元々光秀は美濃(今の岐阜県)にいて斎藤道三の家臣でした。

ですが、斎藤道三は息子の斎藤義龍に裏切られ長良川の戦いで義龍に破れます。

道三側についていた光秀は明智城を攻められ一家離散となってしまいます。

そこで光秀が助けを求めたのは京都の朝倉家です。

光秀は朝倉家で10年間、家臣として仕えていました。

その頃足利義昭も朝倉家に援護を求めて訪ねていましたが、朝倉家は足利義昭を援護する気がありませんでした。

 

足利義昭が他の援護先を探していたところ、光秀から尾張で勢力をつけていた信長を提案されました。

そして光秀は足利義昭と信長の仲介役として信長と会うようになりました

これが明智光秀と織田信長の出会いです。

信長はそこで光秀の能力を見込み、光秀は織田信長の家臣になったのです。

明智光秀と織田信長の関係

最初の方に少しお話ししましたが、明智光秀と織田信長はもともと仲が悪かったわけではなくお互いを信頼していたようです。

光秀は信長に恩義を感じ、忠義を尽くしていたとされています。

例えば、光秀が石山本願寺との戦いで接待絶命の危機に陥った時、信長が自ら命がけで助けにいき、命を救ってくれたという出来事もあったそうです。

一方で信長も光秀を信頼していました。

光秀は信長が戦で窮地に追い込まれた時、助けた功績が数多くあります。

例えば、信長が越前へ攻め込んだ際に、裏切った浅井長政が朝倉氏に就いたことで信長が窮地に追い込まれてしまいました。

その時光秀はしんがりをつとめ、織田軍の撤退に貢献しました。

 

また光秀は戦だけでなく、政治や任された催し事の仕切り役もしっかりこなしていて、信長に評価されています。

なので信長は光秀に重要なポストを与えることが多くありました。

光秀は任された仕事をきっちりこなせる能力の高い家臣だったんですね。

なので信長と光秀はずっと仲が悪かった、というわけではなくむしろ二人は信頼し合っていたもの同士だったのです。

 

明智光秀が本能寺の変を起こした理由を考察

そんなに信頼していたのならなんで明智光秀は本能寺の変で織田信長を裏切ったの?と疑問に思いますよね。

本能寺の変については謎が多く、これ!という理由が解明されていないのが事実です。

明智光秀が本能寺の変を起こした本当の理由もわからずじまいです。

 

なのでここからは私の考察になるのですが、本能寺の変の実行者は光秀だけど実は黒幕がいて光秀が本能寺の変を起こすように仕向けたのでは?と思います。

黒幕説はいくつかあって、朝廷が黒幕だったのでは?足利義昭が黒幕だったのでは?など色んな説が言われていますが、私は秀吉黒幕説が一番ありそうかなと思ってます。

本能寺の変の一報を聞いた秀吉は岡山から裏切った明智光秀を討つために京都に向かって全軍を取って約10日間で兵を大移動させています。

これを中国大返しといいますが、これができすぎてると言われています。

あの時代に10日間で大軍を移動させるのは難しいんですね。

なので最初から仕込んであったのではないか?と言われています。

秀吉は交渉事に関しては明智光秀よりも長けていたと言われているのでありえる話ですし、信長と光秀の不仲説を流したのも秀吉です。

自分の都合のいいように改ざんしている可能性もありますね。

なので私は秀吉黒幕説が有効なのではないかと思います。

もし本能寺の変は明智光秀の単独行動だったとしても、その動きを察して秀吉が利用した可能性は大いにありそうです。

adsense

スポンサーリンク

まとめ

今回は明智光秀と織田信長は実は不仲ではなくお互いを信頼し合っていたというお話しをしました。

大河ドラマ「麒麟がくる」では二人がどう描かれるのか楽しみですね。

スポンサーリンク

関連記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください