マムシと言われた斎藤道三を父に持ち、後に織田信長と結婚し正室となる濃姫(帰蝶)。
今回は、帰蝶の生い立ちと共に、謎の多い信長との婚姻の後、濃姫がどうなったのかをお伝えしたいと思います。
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目次
濃姫(帰蝶)の生い立ち
濃姫はいつどこで生まれたのか?家族構成は?
濃姫は1535年に美濃(現在の岐阜県の南東部)で生まれたと言われています。
濃姫の父親は、鎌倉時代から美濃の守護を務めてきた土岐氏に仕官し、やがて美濃のトップまで登りつめた斎藤道三。
母親は、土岐氏の分家であり土岐氏の重臣の家系である明智家に生まれた小見の方。
小見の方の甥が明智光秀であり、濃姫にとって光秀はいとこにあたるのです。
当時の美濃と尾張の関係
美濃(岐阜)と尾張(愛知県)は南北で隣接しており、美濃の斎藤道三と信長の父である織田信秀は完全なライバル関係にあり、領地をめぐって何度も戦いを繰り返していました。
信秀の競合相手は美濃の道三だけでなく、東には今川家もいました。
この状況を解決するために信秀が考えた案が、道三の美濃との和睦、同盟でした。
そして、その手段として採られたのが、信秀の息子・信長と道三の娘・濃姫との婚姻でした。
濃姫は、15歳のとき信長に嫁ぎます。
信長は濃姫の1歳年上で、16歳のときだったと言われています。
この時代には、女性についての記録はあまり残されていませんが、濃姫もそのひとりで信長との結婚後の記録は、ほとんど残されていません。
謎なのです。
とは言うものの残っている関連資料から、その後の濃姫の人生について、いくつかの仮説が建てられていますのでご紹介しましょう。
濃姫の謎とは?
そもそも濃姫の本当の名前は?
濃姫(のうひめ)という呼び名は、「絵本太閤記」や「武将感状記」に出てくる名前で、信長に嫁いだ後、「美濃から嫁いできた信長の正室」という意味で濃姫と呼ばれたのではないかと一般的には考えられています。
信長の家臣や結婚後に知り合った濃姫関係者は、実際に濃姫と呼んでいたのかもしれません。
作者は不明ですが、1600年代の前期から中期に書かれたとみられる『美濃国諸旧記』(みののくにしょきゅうき)という美濃に関する歴史書が残されています。
この中で美濃の名家や豪族, 戦いや神社仏閣について記載されています。
この『美濃国諸旧記』の中では、濃姫の名前は、帰蝶(歸蝶)や鷺山殿(さぎやまどの)、 あるいは北の方(きたのかた)という名前であったことが記載されています。
この名前の中でも、鷺山殿という名前の鷺山は、岐阜市に実際にある町の名前でもあります。
他にも、古い書物には、胡蝶(こちょう)あるいは、於濃の方(おのうのかた)と記載されているものもあります。
信長と結婚後, 濃姫はどうなったのか?
道三の死後離縁した?
信長と濃姫の婚姻の最大の理由は、尾張と美濃の和睦にありました。
しかし、結婚して4~5年後に、斎藤道三は、息子, 義龍のクーデターにあい亡くなります。
和睦をした当事者が亡くなったわけですから、その時点で、和睦と言う名の契約は有名無実なものになったことでしょう。
「信長公記」の中にも二人の結婚については、記載されているものの、その後の濃姫については何も記載されていません。
このような点から離縁説が語られるのです。
元々、濃姫が嫁いだ際に濃姫は、スパイとしての使命を道三から受けていた可能性もありますし、濃姫にその気がなくても、嫁ぎ先である織田家が濃姫の存在をどう思っていたのかは疑問です。
当時の資料には、なにも記載されていませんが、やはり濃姫が織田に隣接する美濃から嫁いできたことで、今後も不都合が生じる恐れがあり、信長が濃姫の身を守るために離縁のかたちをとったとも考えられないでしょうか?
本能寺での死亡説
司馬遼太郎の「国盗り物語」など、ドラマでよく描かれているのが、濃姫は信長と共に本能寺で亡くなった説です。
信長は1582年の初めに武田勝頼に大勝し、全国統一まで手が届くところまできていました。
6月、京に赴いた信長は、本能寺に滞在し茶会などを楽しんでいたのですが、6月21日の早朝、第一の家臣である明智光秀に攻められ、ここで自害しました。
そのとき、濃姫も同行しており、亡くなったと言われています。
「本能寺の変」以後も生きていた説?
現在、「本能寺の変」以降に記載されたと言われている文書の中から「信長内室」、 「信長公夫人」、 「信長本妻」という文言が確認されており、これが濃姫であり、信長が亡くなった後も存命だったのではないかということも言われています。
信長の死後、5年ほど後に、信長の次男, 織田信雄が編纂した「織田信雄分限帳」という織田家や家臣たちについて記載した記録帳の中に、「安土殿」と呼ばれる高位の女性が登場します。
書物の中の関係性などから、この女性が後の濃姫ではないかとも言われています。
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まとめ
斎藤道三の娘, 濃姫は、1535年ごろに美濃で生まれました。
当時、美濃の斎藤道三と信長の父である織田信秀は領地を争うライバル関係にありましたが、信秀側の提案で和睦することを決定しました。
この和睦の証が、濃姫と信長の婚姻でした。
しかし、婚姻後の濃姫の消息については記録が残っておらず、謎になっています。
濃姫の名前にしても、帰蝶(歸蝶)や鷺山殿, あるいは、胡蝶や於濃のであったとする説もあります。
消息についても、「道三が亡くなったあと離縁になった」, 「信長に同行して本能寺に赴き、そこで亡くなった」,あるいは、「信長の死後も生きて、安土殿と呼ばれていた」などの説があります。
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