明智光秀の生い立ちや経歴・性格!逸話や明言についても

今年2020年, NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放送が開始され、予想を超える視聴率になっていますが、大河ドラマでも明智光秀を主人公として取り扱うのは初のことになります。

今回は、2020年で最も話題の人のひとりである明智光秀の生い立ちや経歴, 性格, 業績などをお伝えいたします。

明智光秀の生い立ち

明智光秀は、1528年に美濃(現在の岐阜県南部)の明智城(岐阜県多治見市)で誕生したと言われています。

実は、光秀が生まれた年や場所については、いくつもの説があり、岐阜県の恵那市であったという説や大垣市であったという説や滋賀県であったという説まであります。

生まれ年についても、1528年の他、1516年説もありますが、ここでは1528年生まれ説に基づきお伝えします。

いずれにしても、明智家は、鎌倉時代から美濃を中心に代々、守護を務めてきた土岐一族の分家でした。

 

長年、土岐一族が治めてきた美濃でしたが、新勢力が土岐家に入り込みます。

それが斎藤道三でした。

道三は、美濃の守護にまで登りつめ、明智家は美濃の中でも道三派閥のひとつでした。

幼くして、父親を失った光秀ですが、明智家の親族に見守られ、武勇の才能は道三にも認められ、明智家宗家の御曹司として立派に成長していきます。

しかし、1556年, 光秀29歳のときに事件が起こります。

斎藤道三の息子である斎藤義龍(さいとうよしたつ)が謀反を起こし道三が討ち死にすると、道三派であった明智家の居城、 明智城も義龍軍に攻められて落城。

明智家親族が明智城で討ち死にしていく中、光秀の叔父の意向で光秀は明智城から逃れることになるのです。

 

明智光秀の経歴

美濃を去った後の光秀

美濃の地を去らざるを得なくなった光秀は、その後、越前の朝倉義景(あさくら よしかげ)のもとで10年ほど仕えたとする説や諸国を遍歴していたという説、あるいは、信長に出会う数年前までは朝倉家から鉄砲隊100人を預かっていた説などが語られていますが、はっきりはしていません。

いずれにしても、どこかの時点で逃亡中であり室町幕府将軍の継承権を持つ足利義昭(あしかがよしあき)を将軍に就任させる活動に携わり、後に光秀の盟友になる細川藤孝と共に活動していました。

1568年(光秀41歳のとき)に、光秀は義昭に織田信長を後ろ盾とするよう提案。

光秀は信長と交渉し、信長は後ろ盾となることを同意。

この年、信長は上洛し義昭は室町幕府15代将軍に就任します。

 

織田家に正式に仕官した後の光秀

そして、信長に誘われた光秀は、喜んで織田家に正式に仕官することになったのです。

1570年、光秀は、浅井軍と戦い、1572年, 琵琶湖沿いに坂本城を築城します。

3年後,1575年(光秀48歳のとき)には、信長から丹波(兵庫県)の平定を命じられ出陣。

石山本願寺攻めも決行しますが、過労のため光秀は倒れ、後に回復します。

1578年(光秀51歳の時)には、丹波を平定し、亀山城を築城します。

 

1580年(光秀53歳のとき)に、信長が朝廷から馬揃え(うまぞろえ)を見せて欲しいと依頼を受けます。

馬揃えとは、軍馬を集めて披露し、演習などでその威力を見せて、志気を鼓舞するパレードのことであり、織田家が朝廷から馬揃えの披露を求められるということは、織田家が朝廷公認の正規軍であると認められたからだと考えられます。

光秀は、このとき、行事を取り仕切る惣奉行(そうぶぎょう), 総指揮者を務めます。

更に1582年には、武田軍を滅ぼした功績を称えて、信長は自慢の安土城に徳川家康を招きますが、このときの宴(うたげ)の責任者も光秀が務めました。

武田家を滅ぼした後の織田家のターゲットは京から遠くの地域まで拡大していきます。

その中のひとつが大勢力を誇る毛利家の中国地方でした。

毛利攻めには、主に豊臣秀吉があたっていましたが、備中高松城攻めをしていた秀吉のもとに、毛利の主力5万人が、高松城を救援するために出陣するという情報が入ってきます。

 

これに対して秀吉は主君, 信長に救援を依頼します。

救援依頼を受けた信長は、光秀に秀吉のために援軍を出すように命じます。

同年6月20日, 亀山城から出陣した光秀は、西へ向かいますが、向かった先は、備中ではなく、京の本能寺でした。

翌日、本能寺に滞在していた信長を急襲して信長は自害します。

7月2日中国から大返してきた秀吉と光秀軍は戦います。これが光秀にとっての最後の戦いとなりました。

敗走途上、落人狩していた村人に襲われ、光秀は亡くなります。

55歳でした。

明智光秀の性格

苦労はしたけど這い上がることに成功した知性派中年

信長は、尾張の守護の家で生まれ育ち、家康は少年期まで人質生活をしていたことはあったものの岡崎城主の家系で二人ともその後、比較的、挫折もなく生涯をまっとうします。

それに対して、光秀は30代前後で、居城の明智城が陥落し妻と共に故郷の美濃を去らなければならない状況に追い込まれます。

人生100年時代になった現代でも、30歳を超えてからの就職は難しく、よほどの能力がないと就職が難しい状況です。

あの戦国時代に光秀は家なし、金なし、退職金なしで世の中に放り出されたのです。

諸国を放浪した時代があったとも伝えられていますし、経済的に苦労した時代もあったようです。

 

光秀の趣味は連歌(れんが)でした。

連歌とは和歌の韻律である「五・七・五」の上の句と「七・七」の下の句を複数の作者が連作する詩の形態です。

朝倉家に仕えていたとされる光秀は、朝倉家ゆかりの人々と連歌のサークルを作っていたと言われています。

連歌会の会場や宴の費用はメンバーが交互に負担していたと言われています。

光秀にホスト役の番が回ってきたとき、お金がなく困っていると、光秀の奥さんである煕子(ひろこ)さんが自分の黒髪を売って、接待費を作ってくれたと伝えらえています。

面目を保てた光秀。

奥さんのためにも、表舞台にでようと頑張ったのかもしれませんね。

 

大きなストレスを抱えていた光秀

美濃にいるときは、マムシと言われる斎藤道三に仕え、越前にいたときは、優柔不断で酒乱の朝倉義景に仕え、いつも他力本願でタカピーな足利義昭(あしかがよしあき)にも仕え、最後に仕えることになったのは魔王とも言われる織田信長。

光秀が仕えた人々は皆、癖のある人ばかりで、光秀の心身はかなりすり減っていたはずです。

信長に対しては、こんな独り言をつぶやいたときもあったのではないでしょうか?

“天才肌の信長は、「朝令暮改」(ちょうれいぼかい)の典型例で、朝命令したと思ったら夕方には方向性を変えてしまうことも多い。

同僚たちも、なんとか、ここまでやってきてゴール間近というときに、信長の突然の方針の変更でやってきたことが全部水の泡になったこともあるし。

本当に困るんだよな!あの性格。

家臣の行動に対しての疑い深さもいい加減にして欲しいよ!

別に敵方と言っても、中にはいい人もいるわけで、個人的に気が合うから武田家に仕える侍と文通していたら、信長からは内通していると疑われて。

言い返して、本当のことを話したとしても、逆切れされて、パワハラされるかもしれないから、どのタイミングでどんな風に話せばいいのか、本当に困っちゃうんだよな。“

こんなあたりが、光秀の本音だったのではないでしょうか?

 

家族思いで誰にでも心優しい男

いろいろな癖のある人間達に接し、その都度、誠実に全力でお勤めを果たしてきた光秀、その疲労度はかなりなものだったことでしょう。

石山本願寺攻めの際には、過労で倒れてしまったことがあります。

そんなとき、光秀の看病をしてくれたのが、妻の煕子(ひろこ)さんです。

その甲斐もあって光秀は体調をもどしますが、看病疲れで今度は、妻の煕子さんの方が倒れてしまいます。

光秀は、すぐに盟友の細川藤孝の従兄弟で神道家や祈祷師をしていた吉田 兼見(よしだ かねみ)を呼び寄せ妻のために祈祷したのです。

美濃の明智城が落城した際も、光秀が妻を背負って山を越えたことも伝えられています。

家族だけでなく、家臣や領地の住人にも光秀は優しかったと伝えられています。

戦でけがをした家臣には、手紙を送り慰め、命を落とした家臣のために寺に米を寄進した話も残っています。

光秀は町づくりにも貢献して福知山では毎年反乱する川に氾濫対策の藪を作り上げたりもしました。

 

明智光秀の業績

織田信長と足利義昭を結びつけた点

やはり光秀の最大の業績は、織田信長を義昭を将軍にするための後ろ盾として選び信長を上洛させた点でしょう。

もし、ここで信長でなく他の武将, 例えば朝倉義景や一向宗や延暦寺寄りの武将を義昭の後ろ盾として選んでいたとしたら、更に乱世は続き、収賄や暴力犯罪が多発する不安な社会は続いたことでしょう。

バトンが信長, 秀吉, 家康に渡ったからこその太平な時代へと移ることができたのでしょう。

後に信長と義昭は対立することになりますが、信長が義昭に勝利することで、特権階級の排除や規律ある社会への道筋がつくられたのだと思います。

 

城づくり名人だった光秀

信長が尾張から美濃, 近江と勢力を京に近づけていくのに伴い、光秀も、滋賀や京都に坂本城, 福知山城, 亀山城, 黒井城, 周山城などを築いています。

それぞれの立地に合わせて、名城と言われる城を次々に建てていきます。

信長以外の人には辛口であった宣教師のルイスフロイスも光秀のことを城づくりの名人として称えています。

また、城そのものだけでなく、周辺の街づくりも併せて計画できた光秀だからこそ、” “町づくりの恩人”や“領民思いの君主”だったと現在も言われています。

adsense

スポンサーリンク

まとめ

明智光秀は、1528年に美濃の明智城(岐阜県多治見市)で誕生したと言われています。

しかし、1556年, 光秀29歳のとき明智城が落城し、美濃から去ることになります。

その後の足取りは記録にはありませんが、光秀は再び歴史の表舞台にたちます。

1568年に、光秀は義昭に織田信長を後ろ盾とするよう提案し、信長は上洛し義昭は室町幕府15代将軍に就任します。

その後、織田家に仕官した光秀は、滋賀や京都を中心に信長の天下統一のために尽力しますが、1582年には、京の本能寺に滞在していた信長に謀反を起こして、自害に追い込むものの秀吉との戦いに敗れ、敗走中に落人狩していた村人に襲われ亡くなります。

光秀の人柄を考えたとき、光秀は苦労はしたものの這いあがることに成功した努力家であったと言えるでしょう。

ただ、光秀の主君になった人たちは、癖のある性格の難しい人ばかりで光秀はかなりのストレスを抱える生活をしていたのだと思います。

ただ、家族思いで誰にでも優しい男であったことは終生変わることはありませんでした。

光秀は、信長と義昭を結びつけた大役を果たしただけでなく、城づくりの名人であったと伝えられています。

スポンサーリンク

関連記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください