今回は足利義輝と明日光秀の関係について書いていきます。
大河ドラマ「麒麟がくる」では足利義輝は明智光秀の一言で心が動かされ、明智光秀もまた義輝の志に賛同しお互いを信頼し合う仲として描かれています。
ですが実際のところ二人の関係はどうだったのでしょうか?
明智光秀は義輝の次の将軍・足利義昭に仕えることになっています。
それまでに義輝に会う機会はあったのでしょうか。
そこも踏まえて今回は二人の関係を深堀していきたいと思います。
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目次
足利義輝は剣豪将軍!
【キャストビジュアル公開】
足利義輝(あしかが・よしてる)
向井理#麒麟がくる pic.twitter.com/RZIXj8vI4J— 【公式】大河ドラマ「麒麟がくる」毎週日曜放送 (@nhk_kirin) December 25, 2019
足利義輝は剣豪将軍と言われるほど武術に優れた人物だったようで、塚原卜伝から教えを受けた直弟子のひとりとも言われています。
塚原卜伝とは数多の戦や合戦に参戦するも生涯一度も負傷しなかったと言われている伝説の剣豪です。
そんな人に習った義輝もまた、武術に優れていたのではと言われています。
武術に優れた足利義輝がどんな人生を送ったのかをお話ししていきますね。
足利義輝は1536年12代将軍・足利義晴の嫡男として生まれます。
足利義輝が誕生した当時は室町幕府と将軍の権威が地に落ちていました。
応仁の乱の影響から長きに渡って将軍の権威は停滞し、将軍の代わりの実権を握っていたのが細川晴元でした。
細川晴元は管領で、将軍を補佐して幕政を統括する役割を担う将軍の次に高い役職とされています。
その細川晴元から実権を取り戻そうと義輝の父・義晴は何度も晴元に戦を仕掛けますが、その度に破れて義輝と共に京から逃げ、近江国坂本や朽木に逃げたりを何度も繰り返していました。
なかなか実権を取り戻せない中義輝は父から家督を譲り受け、足利義輝はわずか11歳で将軍になり朝廷からも認められます。
11歳って早すぎですよね・・・。
でも父・義晴は生きているうちに家督を譲りたいという想いがあったようです。
そして1548年、ついに足利義晴は細川晴元と和睦します。
義輝はようやく京へ戻ったのもつかの間、今度は細川晴元の家臣であった三好長慶が細川晴元を裏切り、力を持ち始めます。
1549年に「江口の戦い」で足利義晴と足利義輝は三好長慶に敗れ、二人はまた京から近江国坂本へ逃げることになります。
そして長慶との戦で義晴は亡くなり、義輝は三好長慶と和睦を図るよう執り計らいますが失敗を繰り返しますが、ようやく和睦が成立。
義輝は将軍の権威を回復するために動きます。
そんな中目の上のたんこぶ的存在だった三好長慶が亡くなります。
これで不安要素がなくなったかと思いきや、長慶が亡くなっても三好三人衆と呼ばれる三好家の重臣3人は健在でした。
その三人衆の中に有名な松永久秀がいます。
実権を握り続けたい彼らは、将軍の権威を回復しようとする義輝の存在が邪魔で仕方ありません。
そこで足利義輝暗殺計画が持ち上がるのです。
足利義輝の最期
足利義輝は三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と松永久秀の息子・松永久通によって暗殺されます。
これが永禄の変です。
永禄8年5月、義輝のいる二条御所を三好方の1万もの軍勢が取り囲みました。
最初三好三人衆と松永久通は「将軍に訴訟がある」と嘘をついて取次ぎを求めたのですが、義輝側に怪しまれてしまったので、御所の四方から一気に攻め入って来ました。
義輝側の側近たちはわずか30余名でしたが、少ない人数にも関わらず三好方の数十人を討ち取ったそうです。
しかし1万もの軍勢に勝てるわけもないことを悟った義輝は自ら刀を取って戦います。
これは日本史上稀で征夷大将軍が兵を直接率いて戦うことはほぼありません。
塚原卜伝に武術を習ったとされる義輝にはこんな逸話があります。
最後の戦いの際に名刀を畳に刺しておき、切っては次の刀、切ってはまた次の刀と次々と敵を切り続けたとされています。
義輝があまりに強すぎるので四方から畳で抑え込みトドメを刺したと言われています。
カッコイイですね、義輝。
足利義輝は享年30でなくなりました。
ちなみに義輝だけでなく母親や正室、身ごもっていた側室、僧侶もみな殺されてしまいました。
その中で唯一生き延びたのが後の将軍になる義輝の弟・足利義昭です。
明智光秀が涙するほどの関係だった?
#麒麟がくる
この足利義輝公に生涯仕えて、この方と共に麒麟がくる国を作りたい…!
心からそう思いました。 pic.twitter.com/EZH6Ewzang— 天地百八 (@TenkouTisatu108) March 29, 2020
大河ドラマでは足利義輝と明智光秀は顔見知りで、信頼し合っている様子で描かれています。
本当にそうであれば足利義輝が亡くなった際に、光秀は悲しみと怒りで震えたでしょう。
では実際に義輝と光秀に接点はあったのでしょうか?
これは諸説あるようです。
明智光秀は美濃の内乱である長良川の戦いの後から越前で朝倉義景に仕官するまでの間、義輝に足軽として仕えていたなんて説があったり、義輝が将軍の時に幕府衆として近江田中城に籠城していたとかなど・・・。
・足利義輝が将軍の時に幕府衆として近江田中城に籠城していたとかなど。
しかしどれもしっかりした史料ではないようで、信ぴょう性が低そうです。
明智光秀と将軍足利家が繋がるのは、生き延びた弟・足利義昭が将軍になる時です。
光秀は織田信長と足利義昭の取次を任され、その時に初めて義昭と会ったと言われています。
義輝と繋がっていた確かな証拠はありませんが、足利家と関りがあったことは確実です。
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まとめ
今回は足利義輝と明智光秀の関係について書いていきました。
もしかしたらお互い顔は知っていたかもしれませんが、直接的な関係があったと言える史料はありませんでした。
義輝は情けない不運な将軍として言われることが多いのですが、将軍としての権威を取り戻すために何度も戦を試みる姿勢や、最期の最期まで戦う姿勢はかっこいなぁと思いました。
麒麟がくるでも最後はきっとかっこよく描かれるのではと期待しています。
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