豊臣秀吉は貧しい農民の出から、織田信長に仕え天下人にまで登り詰めた下克上の人です。
知らない人はいない、人気な武将ですね。
秀吉は信長に気に入られるなど人懐っこい性格のイメージがありますが、実は天下人になってからの秀吉はそれとは真逆なのです。
それ以外にも秀吉には名言や伝説、逸話など面白い話がたくさんあります。
今回はそんな豊臣秀吉を深掘りしていきたいと思います。
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目次
豊臣秀吉の性格
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(第13回より)#麒麟がくる #麒麟File#藤吉郎 #佐々木蔵之介 pic.twitter.com/Oi8wsta2lr— 【公式】大河ドラマ「麒麟がくる」毎週日曜放送 (@nhk_kirin) August 3, 2020
秀吉は天下人になる前と後では性格が違うと言われています。
人たらし
天下人になる前の秀吉は人懐っこく“人たらし”なんて言われています。
織田信長に気に入られ“サル”と呼ばれるほどかわいがられていました。
人柄もよかったようで、ずっと謁見するように伝えていた伊達政宗が半年遅刻の小田原征伐時にやっと合流します。
誰もが斬首されるのではないかと思いましたが、豊臣秀吉は伊達政宗を許しました。
そして九州征伐で降伏した島津義久の命を奪いませんでした。
信長だったらすぐ罪になりそうなことですが、秀吉は命を奪うことはしませんでした。
人の命を大事にしていたのかもしれません。
この豊臣秀吉の人柄が好かれ、竹中半兵衛・黒田官兵衛などの有能な軍師たちは信長よりも豊臣秀吉に天下を獲らせたいと考え、仕えていたのだそうです。
目立ちたがり屋
あと豊臣秀吉は目立ちたがり屋でもありました。
目立ちたがり屋だったことがよくわかるエピソードがあります。
秀吉が信長に仕えていた時、秀吉は誰もやりたがらない仕事を率先してやっていたそうです。
信長の居城・清洲城ではトイレ掃除をやっていたそうで、仕事をした後は「秀吉がやりました!」と大声でアピールしてたのだとか。
貧しい農民の出の秀吉ですから、とにかく目立って皆に気に入られようとしていたのかもしれませんね。
派手好き
秀吉は派手好きでも有名です。
秀吉が作った時の天皇を迎えるための茶の湯の「聚楽亭」は豪華絢爛。
当時茶人として千利休は茶の湯を楽しむため、茶室はとことんシンプルにしていたのに秀吉は反対のことをしていました。
天下人後の性格
そんな秀吉の性格が変わっていったのは、関白の位を手に入れた頃からです。
一説には元から冷酷だったけど、上の人に好かれるために明るい性格のふりをしていたという見方もあります。
関白という位を手に入れた頃から、秀吉は家臣の言うことを聞かなくなります。
天下統一を果たした秀吉が次に目指したのは朝鮮征服です。
これには黒田官兵衛や千利休が反対しますが、秀吉は言うことを聞かず強行します。
家臣の言うことを聞かないだけならまだしも、この頃から秀吉は冷酷で残虐な行動をしていきます。
例えば茶人・千利休の切腹です。
何の罪も犯していない千利休に秀吉は切腹を命じたのです。
秀吉は甥・豊臣秀次にも千利休と同じようなことをしていて、秀次は突然切腹同然の自害を秀吉から言い渡されます。
しかも秀吉はその時、豊臣秀次一家ほぼ全員の命を奪い、城も全て取り壊されました。
ひどすぎる・・・。
ただ一つ良いところがあるとすれば家族を大事にしていたところです。
秀吉は母親の大政所と正室寧々を大切にしたと言われていました。
秀吉の唯一の子供秀頼を産んだ茶々も好きだったのですが、晩年は寧々を大切にしていたと言われていてよく大政所と、寧々の元を訪ねたと言われています。
豊臣秀吉の名言
豊臣秀吉は数々の名言を残しています。
その中で現代にも生かせる名言をいくつか紹介していきます。
名言1:負けると思えば負ける、勝つと思えば勝つ。逆になろうと、人には勝つと言い聞かすべし。
気持ちで負けてしまえば勝てるものも勝てなくなる。
負けるかもしれなくても「勝つ」とハッタリをかますのが大事ということですね。
名言2:夢は大きいほど良いというが、わしはすぐ手の届く事を言っている
秀吉は貧しい家の出でありながら天下の大将軍になるという大きな夢を持ち実際に実行した人物です。
まず読み書きができるようになることから始め、雑用でもいいから将軍に仕えることを目指しそこから着々を上に上がっていきました。
大きな夢も着実に積み重ねれば叶うということを秀吉は教えてくれていますね。
豊臣秀吉の伝説
秀吉には「え?」と耳を疑うような伝説があります。
その伝説を紹介していきます。
指6本説
信長時代にキリスト教布教のために来日したルイス・フロイスが残した「日本記」という史実によると、秀吉は醜い容姿に指が6本あったと書かれています。
この「日本記」はフロイスが秀吉のことを嫌っていたので私怨が含まれているのではないかと言われ、信じられていませんでした。
ですが秀吉の友達である前田利家の回想録に「太閤様は右の手親指1つ多い」と同じようなことが載っているのです。
このことから秀吉は右手の親指が多かったと言えます。
実は指が多く生まれてくる人は珍しくなく「多指症」と言われています。
私の知人の子供も生まれながらにして1本指が多くありました。
現代では手術でキレイに指を整えられるので6本ある人の方が珍しいですが、この時代に手術の技術はないので指が多い人はそれなりにいたと考えられます。
秀吉重瞳(ちょうどう)説
重瞳とは目の中に瞳が二つ以上ある人のことを言います。
医学的には「多瞳孔症」と呼ばれていて先天的なものもあれば、事故などで後天的になってしまう人もいるようです。
そして秀吉は重瞳だったのではないかという説があります。
ですがこれは信ぴょう性が低いと言われています。
一説には秀吉が天下人になったあとの権威付けのためだったのではと言われています。
昔中国では重瞳は偉人に多く、日本でも貴人の相と言われてたので秀吉はそれにあやかろうとしたのかもしれません。
豊臣秀吉の凄い逸話
秀吉は伝説以外に逸話も多くあります。
代表的な逸話を紹介します。
信長の草履を取り
身分の低かった秀吉はまずは信長の草履取りお仕事をします。
草履取りとは主人が外出するときに草履をそろえ。変えの草履を持ってお供した召使いです。
ある寒い雪の日、信長が帰る時に下駄を履くと草履が温かくなっていました。
秀吉が懐で下駄を温めていたのです。
その姿に信長は感心し、それ以降信長は秀吉を目に掛けたという有名な逸話です。
中国大返し
明智光秀が信長を裏切った本能寺の変が京で起こった時、秀吉は備中高松城の戦いで岡山にいました。
ですが信長が自害した一報を聞いた秀吉はすぐに全軍を引き連れて光秀のいる京へ帰ってきました。
たった10日で岡山から京へ戻ってきたのもスゴイですが、それよりもスゴイのは秀吉は2万もいる軍を引き連れて帰ってきたということ。
これが本当ならスゴイですよね。
本当にそんなことができたのか?とか本能寺の変は秀吉が黒幕では?など憶測が飛ぶのも無理はありません。
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まとめ
今回は豊臣秀吉の性格や名言、伝説や逸話についてまとめました。
人懐っこくて慕われていた秀吉ですが、天下人になってからは残酷な行為が目立ちました。
そして秀吉は本能寺で信長を裏切った明智光秀を討つ重要な人物です。
大河ドラマ麒麟がくるではそんな二人の関係性を描いていくと思われます。
二人がどんな関係になるのか注目してみていくのも面白いですね。
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