今回は明智光秀の娘について書いていきたいと思います。
江戸時代に書かれた「明智軍記」によると、明智光秀には息子3人と娘4人がいたと書かれています。
その中で謎が多いのが娘4人です。
3女は歴史的に有名な細川ガラシャですが、他の3人は名前はもちろん存在自体もあまり知られていません。
そこで今回は明智光秀の謎多き娘4人について深堀りしていきたいと思います。
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目次
明智光秀の娘達の名前
明智光秀の娘は4人いたと言われています。
長女がりん、三女が玉(ガラシャ)、四女が京で次女だけ名前が不明です。
裏切り者として亡くなっていった光秀の娘たちはどんな生涯だったのでしょうか。
一人ひとりの生涯と最期を見ていきたいと思います。
長女はりん
美濃で起きた長良川の戦いで負けた明智一家は越前へ逃げます。
妻の煕子は懐妊していて光秀が背負って落ち延びたというエピソードがあります。
その時にお腹の中にいたのが「倫(りん)」です。
りんの生涯と最期
りんは織田信長の家臣だった荒木村重の嫡男・荒木村次に嫁ぎます。
ですが夫の父・荒木村重が織田信長に反逆します。
このことを知った明智光秀は村重に謀反を起こさないよう説得しますが村重は拒否し、明智光秀を追い出します。
そして荒木家に嫁いでいたりんは離縁され実家に戻されてしまいます。
その後、光秀の重臣で明智五宿老の一人でいとこの明智秀満(左馬之助)に嫁ぎます。
夫の秀満は主君の光秀が起こした本能寺の変で活躍しました。
ですがその後、明智光秀と豊臣秀吉が対立した山崎の合戦で光秀が敗れ自害したのをきっかけに、居城だった坂本城に戻り明智秀満も自害しています。
りんはその時に一緒に自害したと言われています。
次女は名前不明
明智光秀の子供の中で唯一名前がわかっていないのが次女です。
明智光秀の次女は長女が生まれた2、3年後に生まれたのではないかと言われています。
次女の生涯と最期
次女は明智光忠と結婚したと言われています。
明智光忠とは明智光秀の父・光綱の弟・光久の息子です。
つまり明智光忠と次女とは従兄弟(いとこ)です。
光忠も秀満と同じく本能寺の変に参戦していましたが、戦で負傷し知恩院で療養していました。
ですが山崎の戦いで主君の光秀が敗戦したことを知り、光忠も自害したと言われています。
次女がその後どうなったかは記録が残っていないので不明ですが、秀満が一家全員自害しているので秀忠も同じように一家全員で命を落としたのではないかと思います。
そのため、明智光秀の次女も自害だと思われます!
三女は玉(ガラシャ)
三女の名前は玉です。(玉子、珠、珠子という説もあります)
光秀の子供の中では一番有名で、キリスト教へ入信した後『ガラシャ』という洗礼名を授かります。
嫁いだ先が細川家だったため「細川ガラシャ」として有名です。
玉(ガラシャ)の生涯と最期
玉は15歳の頃に細川藤孝の嫡男・細川忠興と結婚しました。
玉は美人だったそうで、夫の忠興はガラシャに夢中で仲のいい夫婦として知られています。
二人の間には3男2女が生まれています。
しかし嫁いでわずか4年後に本能寺の変が起こります。
父・細川藤孝は明智光秀が再三協力をお願いするも首を縦に振らず、信長側に味方します。
玉は明智家の人間ですから離縁されてもおかしくないのですが、藤孝の計らいで幽閉されます。
玉は幽閉生活を余儀なくされて光秀を恨んでいたのではと言われています。
豊臣秀吉の計らいもあり、幽閉を解かれた玉は出家した細川幽斎(藤孝)とともに禅宗を信仰していました。
ですが細川忠興が高山右近から聞いたキリスト教の話をしたのがきっかけに、キリストの教えに心惹かれていきました。
玉はその後こっそりと教会へ通っていましたがバレてしまい、侍女たちを通じて教会とやり取りをしていました。
教会から送られた書物を読むことでキリスト信仰を深めていったのです。
そして自邸で、清原マリアから密かに洗礼を受け「ガラシャ」という洗礼名を受けます。
しかしガラシャがキリシタンになったのが禁教令発布直後だったため、夫の忠興は激怒します。
ガラシャにメロメロだったはずの忠興が側室を5人持つと言い出すなど夫婦仲が悪化。
ガラシャは夫と離婚したいと考えますが、キリスト教では離婚を禁じられているのでできませんでした。
そんな中豊臣秀吉が死去します。
そして家臣の石田光成と徳川家康が対立します。
夫の忠興は徳川に味方しますが、石田三成は武将の奥方を人質にと考えガラシャを人質に取ろうとします。
石田三成の使者が現われてもガラシャは屈せずに拒否します。
拒否された三成軍は実力行使で細川家屋敷を包囲します。
ガラシャは自分の胸を家老の小笠原秀清に刺すよう命じ命を絶ちました。
そして小笠原秀清らは屋敷に火をつけて共に自害しました。
本来なら自害するところですが、キリシタンは自害してはいけないという決まりがあるので最期までその決まりをガラシャは守りました。
四女は京
四女の名前は京(京子)といいます。
三人の姉たちは皆、戦で命を絶っていますが四女の京はどんな人生を送ったのか見ていきましょう。
京の生涯と最期
京は織田信長の弟・織田信勝の息子である津田信澄に嫁ぎました。
これは織田信長の命令だったようです。
京と信澄の間には男の子が生まれています。
幸せな生活を送っていたのもつかの間、京の父・光秀が本能寺の変を起こします。
津田信澄は長宗我部元親を攻める予定でしたが本能寺の変の影響で中止に。
それだけでなく信澄は本能寺の変には関わってないのですが、なぜか光秀と共謀だったという噂が流れてしまい、ピンチに陥ります。
恐らく光秀の娘を妻にしていたからでしょう。
噂を信じた織田方は信澄を処刑されてしまい、京は未亡人になってしまいます。
その後、京がどうなったかは記録がなくどんな最期を遂げたのかもわからずじまいです。
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まとめ
明智光秀の娘は4人とも光秀が起こした本能寺の変の影響で悲しい結末を迎えていることがわかりました。
もし光秀が本能寺の変を起こさなければ皆幸せに暮らし、明智家ももっと存続していたのかもしれません。
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