明智五宿老の武将は誰?活躍や功績についても

今回は明智五宿老について書いていきます。

明智五宿老とは明智光秀が信頼していた5人の家臣のことです。

明智五宿老は明智光秀が織田信長に謀反を起こした本能寺の変の計画を伝えるなど、明智光秀からの信頼度が高く、明智五宿老たちもまた明智光秀を信じて働いていたと言われています。

理想的な上司と部下の関係だったのです。

そんな明智五宿老について深堀していきたいと思います。

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目次

明智五宿老の武将は誰?

明智五宿老は明智左馬之助秀満)・藤田伝吾行政)・斉藤利三明智光忠溝尾茂朝の5人の武将のことです。

それぞれどんな人物だったのか詳しく見ていきましょう。

明智左馬之助(明智秀満)

明智左馬之助(秀満)は、明智光秀の叔父・明智光安の息子で明智光秀とは従兄弟です。

斉藤道三と息子の斎藤高政の対立で斉藤道三側についた明智家が、敗戦して美濃を逃げるときから家臣として仕えています。

明智光秀の子供を妻に迎えています。

明智左馬之助の活躍や功績

明智左馬之助は武将としての能力はもちろんですが、茶道もできる教養人でした。

明智光秀の主君・信長は茶の湯を好んでいたので、茶道ができる明智左馬之助は明智光秀に重宝されていたと言われています。

明智左馬之助といえば有名なのが「湖水渡り」です。

明智左馬之助は明智光秀からの命で本能寺の変を起こした後、安土城の守備を任されていました。

ですが織田信長が討たれたことを知った豊臣秀吉が大軍を引き連れ急ぎ京へ戻ります。

そして明智光秀と対立しますが(山崎の戦い)明智光秀は豊臣秀吉に破れてしまいます。

明智光秀の敗戦を耳にした明智左馬之助は急いで居城であった坂元城へ戻ります。

戻る途中、敵の秀吉軍に取り囲まれてしまいます。

絶対絶命の明智左馬之助はなんと馬に乗ったまま琵琶湖へ飛び込みます。

「無謀なことをして・・・今に戻ってくるだろう」と様子を見ていた秀吉軍でしたが、明智左馬之助はなんと馬に乗ったまま琵琶湖を渡り切ってしまうのです。

見事な脱出劇に敵ながらあっぱれ、という逸話が残されています。

この逸話は誇張しているようですが、絶体絶命な状態だったのに突破していったのは間違いないようで明智左馬之助の能力の高さがうかがえる話ですね。

藤田伝吾(藤田行政)

出自や年齢などは史料がなく不明ですが、明智左馬之助よりも前から明智光秀に仕えていたと思われます。

明智光秀の前に父・綱吉に仕えていたのではないかとも言われています。

藤田伝吾の活躍や功績

藤田伝吾は明智光秀と同じ織田信長の家臣であった国衆・筒井順慶との仲介役をしていました。

筒井順慶とは大和国の国衆でしたが、京の松永久秀と争っていました。

そんな中明智光秀の計らいで織田信長の家臣となり松永久秀とも和睦をします。

これがきっかけで筒井順慶は明智光秀の与力となります。

与力とは位は同じ織田信長の家臣ですが戦の時には明智光秀の指示を聞いて動く役目の人のことです。

 

そんな明智光秀と筒井順慶の仲介役をしていたのが藤田伝吾で、藤田伝吾を通じて互いを知っていったと言われています。

そして明智光秀が本能寺の変を起こすと、明智側に協力するよう明智光秀は順慶にお願いします。

その時に遣いとして筒井順慶を説得にしに行ったのも藤田伝吾でした。

筒井順慶は最後まで明智光秀の味方に付くか悩んでいたそうですが、結局豊臣秀吉についてしまい、藤田伝吾は激怒したそうです。

豊臣秀吉と明智光秀が対立した山崎の戦いでは、藤田伝吾は光秀軍の右翼として戦い、6箇所を負傷しながらも戦いぬきました。

ですが健闘空しく、明智光秀が敗戦し自害したのを受け、藤田伝吾も自害しました。

斎藤利三

斉藤利三の出身や諸説あってはっきりしていませんが、美濃の土岐家の出ではないかと言われています。

斉藤道三の斎藤とは別家系です

娘にはのちに有名になる春日局がいます。

斎藤利三の活躍や功績

斉藤利三は明智光秀と同じ幕府の奉公衆でしたが、その後は主君が数回変わります。

最初は美濃の斎藤義龍、その次は斎藤義龍の家臣で西美濃三人衆の一人・稲葉良通(一鉄)です。

稲葉良通は斎藤家から離反し織田家についたため、斎藤利三はそれに従ったようです。

最終的には明智光秀に仕えることになるのですが、それは稲葉良通との不仲がきっかけだと言われています。

本能寺の変の計画を、藤田行政、溝尾茂朝、秀満といった一部の重臣に打ち明けました。そしてその中には利三も含まれていたのです。

斉藤利三は反対したそうですが、本能寺の変に参加し見事やり遂げます

ですが豊臣秀吉による山崎の戦いが勃発し、豊臣秀吉と明智光秀が対立。

斉藤利三は先鋒として活躍しますが、破れて逃走します。

最期は暑さで衰弱し、捕まってしまい斬首されてしまいます。

ちなみに本能寺の変は織田信長に恨みをもっていた斉藤利三の黒幕説もあります。

 

明智光忠

明智光忠は明智光久の子として生まれました。

明智光久は明智光秀の父・明智綱吉の兄弟で一番下の従兄弟です。

光秀の次女を妻として迎えていたと言われています。

明智光忠の活躍や功績

明智光秀は織田信長に丹波国の攻略を任されていました。

そのため京都の亀岡に「亀山城」を建造します。

その城の守備を任されていたのが明智光忠だったそうです。

その後丹波国を制覇した明智光秀に明智光忠に八代城を任されます。

本能寺の変の計画を明智光秀から聞かされ、他の明智五宿老と共に実行します。

この戦いで明智秀忠は負傷し、知恩院にて療養していました。

その時に山崎の戦いが勃発し、明智光秀が豊臣秀吉に破れたことを知ります。

主君を失った明智秀忠は居城の坂元城に戻り、火をつけて自害したと言われています。

 

溝尾茂朝

溝尾茂朝は古くから明智家に仕えていた家臣と言われています。

1538年生まれなので明智光秀より10歳くらい若かったようです。

もともとは三沢姓で、越前の朝倉氏を滅亡させた時の代官・三沢秀次とは繋がりがあるのでは?と言われています。

溝尾茂朝の活躍や功績

溝尾茂朝は明智光秀が織田信長と足利義昭を仲介したときに家人として立ち会ったり、明智光秀が安土城で徳川家康の接待役を務めた時にも、そばで明智光秀を補佐したとされています

昔から明智光秀の側にいたことがわかりますね。

溝尾茂朝も本能寺の変の計画を明智光秀から聞かされた家臣の一人で、本能寺を襲撃に参加しました。

その後に起きた山崎の戦いで敗戦した明智光秀は落ち武者狩りに遭います。

溝尾茂朝は竹やぶに明智光秀の首を隠して、坂本城に逃げて自害したと言われています。

ちなみにこの部分は諸説あります。

明智光秀の首を家来に託して坂本城にて自害したとか、首は織田信孝に差し出されたとか、その場で力尽きたなどなど・・・たくさんありすぎてどれが本当かは不明です。

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まとめ

どの家臣も明智光秀に絶対的な信頼があったことがわかります。

織田信長は家臣からの裏切りが多かったのに対して、明智光秀にそういった話が少ないことから、明智光秀もまた家臣を大切にしていたことがわかります。

大河ドラマ「麒麟がくる」でも明智五宿老の働きが物語の鍵を握ると思われます。

今回紹介した5人の家臣の動きに注目ですね。

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