明智左馬之助(明智秀満)の能力や強さは?最期や逸話についても

今まであまり注目されることのなかった明智左馬之助(明智秀満)ですが、近年「明智秀満書状」が見つかり明智光秀の右腕的存在として活躍していたことがわかりました。

左馬之助についての史料は少なく、はっきりと史料に残っているのはこの書状と自害するまでの5年間の記録のみです。

ですが左馬之助について知っていくと逸話やカッコイイ最期など興味深い話がたくさん見つかりました。

今回はそんな明智左馬之助について詳しく書いていきます。

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目次

明智左馬之助(明智秀満)の人柄について

左馬之助の光秀とのエピソードを見ると主君に忠義を尽くす誠実な人物だなと感じました。

左馬之助は最期まで光秀に忠義を尽くし続けました

そのことがわかるのが、信長を討った光秀が豊臣秀吉に敗れた後のエピソードです。

光秀が亡くなった後、左馬之助は居城であった坂本城へ急ぎ帰ります。

そして光秀の妻や自分の妻・子とともに自害するのですが、その時に文化財と目録を堀秀政に託します。

ですが秀政はそこに左馬之助の愛用していた脇差がないことに気づき尋ねると左馬之助はこう言いました。

「この脇差は光秀が仕えていた朝倉家に伝わるものであり、光秀が命に代えてでもと秘蔵していたものだ。だから私があの世で光秀に渡したい」と。

そして左馬之助は脇差を指したまま自害するのです。

主君想いで泣けます・・・。

 

他にも左馬之助の人柄がわかるエピソードがあるので紹介します。

左馬之助が坂本城に戻った時、長兵衛が一番槍の功名を挙げようと坂本城に乗り込んできました。

左馬之助は長兵衛と親交があったとされています。

功を急ぐ長兵衛に左馬之助はこう語りかけました。

「自分も武将として名を上げようと自分の身を犠牲にしてでも苦しみ悩んできた。だが結果は見ての通りだ。次はあなたが私のようになるかもしれない。だから武士を辞め、安穏とした一生を送られよ」

そう言うと左馬之助は餞別として金を与え自害します。

長兵衛はその資金をもとに商人として大成した、という話です。

明智家を守るため、子孫を残すために自ら矢面に立ち主君を守ってきた左馬之助ですが、結局は主君も妻も子も守れず、明智家は滅亡してしまいます。

親しい人にはそんな生き方はしてほしくないと思ったのでしょう。

きっと左馬之助も麒麟がくる世を望んでいたのでしょうね

自分を討ちにきた相手にそんな言葉をかけるなんて誠実で熱い人柄がうかがえます。

明智左馬之助(明智秀満)の能力や強さ

左馬之助は主君・明智光秀から絶対的信頼を得ていました。

光秀は武将としても文化人としても能力の高い人物です。

そんな光秀から信頼されるということは左馬之助の能力も並ではないと考えられます。

左馬之助が武将として優れていたことがわかるのが本能寺の変の後に起きた“山崎の戦い”です。

山崎の戦いとは本能寺の変で信長自害の一報を聞きつけた豊臣秀吉と明智光秀が対立し、明智光秀が負け、自害した戦いです。

実はその戦に左馬之助は参加していませんでした。

本来なら重臣は主君の側で一緒に行動しているはずですが、左馬之助は光秀から安土城の守備を命じられていたのです。

安土城は地理的に、交通の重要拠点の1つです。

東海北陸からの敵を抑えるには安土城を守る必要があったのです

左馬之助はそこを任されたという点から、左馬之助の武将としての能力は高かったと考えられます。

 

また左馬助は文化人としての素養もありました

光秀が仕えていた織田信長にとって「茶」は趣味だけでなく、政治的にも特別な存在でした。

信長が茶の湯を愛し、茶器や茶会を重要視していたのは有名な話です。

左馬之助は光秀が主催した茶会で、おもてなし役に指名されていたことがあります。

当時茶会は政治的外交の役割をしていたので、茶道ができる左馬之助は光秀にとって重要な存在だったはずです。

明智左馬之助(明智秀満)の最期

先に伝えたように左馬之助の最期は自害でした

山崎の戦いで主君の明智光秀がなくなった一報を受け、左馬之助は居城である坂本城へ帰ります。

敗けることがみえていたため、光秀の妻・煕子は敵に処刑されることが確実でした。

左馬之助は自らの手で煕子と光秀の子、そして自分の妻を刺し、追撃してきた堀秀政に坂本城にあった文化財を譲り渡しました

そして城に火を放って自害し、明智家は滅亡しました

左馬之助は明智家のためにすべてを捧げた人生だったのですね。

明智左馬之助(明智秀満)の逸話

史料が少ない左馬之助ですが、有名な逸話が残されています。

それは明智左之助の湖水渡りです。

左馬之助は山崎の合戦の時には光秀の天下に備え、安土城に守備についていました。

ですが事態は一変し、光秀は敗北してしまいます。

その一方を受けた左馬之助は居城である坂本城へ急ぎ帰ります。

その道中、秀吉軍の堀秀政と戦闘になりました。

味方の兵が次々と討たれ、追い詰められた左馬之助は馬に乗ったまま琵琶湖に飛び込みます。

敵の堀秀政は今に沈むだろうと思い、沈むのを待っていたそうですが、なんと左馬之助はそのまま琵琶湖を渡り切ってしまったのです。

そしてそのまま坂本城へ走り去っていきました。

この見事な脱出劇は「湖水渡り」という伝説になり、語り継がれています。

実際は馬で湖と浜辺の間の陸地を走り抜けたというのが事実みたいですが、伝説になるほど華麗に脱出したのでしょう。

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まとめ

左馬之助は光秀から絶対的な信頼を得ていました。

その証拠に光秀が本能寺の変の計画を一番最初に継げたのは左馬之助だったと言われています。

その一方で左馬之助もまた光秀を慕い最期まで仕え続けた人物でした。

常に明智家のことを考え、行動する様子は胸を打たれるものがあります。

大河ドラマ「麒麟がくる」でもそんな左馬之助の様子が描かれるといいなと思います。

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