徳川家康の生い立ちや経歴・性格!業績を分かりやすく解説

織田信長、豊臣秀吉と渡った天下統一を目指したバトンを最後に受け取ったのは徳川家康でした。

徳川家康が開いた江戸幕府はその後250年以上に渡って続いていきます。

今回はこの徳川家康の生い立ち、経歴、性格、業績をご紹介したいと思います。

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目次

徳川家康の生い立ち

徳川家康は1543年12月26日に三河の岡崎城で城主 松平弘忠(まつだいらひろただ)の長男として生まれます。

幼名は竹千代(たけちよ)といいました。

信長は1534年生まれですから徳川家康は織田信長よりも11歳年下だったわけです。

三河は東には大国, 今川家があり、北には織田家があり、二つの大国の力関係を見ながら政(まつりごと)を行う必要がありました。

予測を見誤れば、どちらかの大国に呑み込まれてしまう危機をいつも抱えていたのです。

徳川家康が生まれたころにも、松平家中には今川側についたほうがいいと考える者、織田側につくべきだと主張する者、両派がいたと考えられますが、今川家の巨大さと勢力から見て今川家についた方がよいと城主, 松平弘忠は考えていたのだと思われます。

 

徳川家康は6歳のとき、今川家の人質に出されることになりますが、駿河に向かっている途中、家康は織田家側にさらわれ、結局、織田家の人質になります。

そして、幼かった徳川家康は信長に出会います。

しかし、2年後、 徳川家康が8歳のときには、再度, 織田家と今川家の間の話し合いにより、徳川家康は今川家の人質として駿河へ連れていかれることになったのです。

徳川家康は、今川家のもとで元服を迎え、17歳まで人質として駿河で過ごすことになります。

 

家康の運命を変えたのが、1560年(家康18歳のとき)に起きた桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)でした。

今川義元(いまがわよしもと)は、上洛することを決心し、2万5千人の大軍を率い西に向かいます。
そのとき、徳川家康は今川家の先鋒として出陣していました。

義元が、最初にぶつかる相手は織田信長であり、織田家が用意できうるであろう兵の数は最大でも5千人でした。

大軍を有する今川家が勝つことは誰の目にも明らかでした。

しかし、世の中の人の予想は見事に外れます。

信長は、2千とも5千ともいわれる少数の兵を率いて、桶狭間(現在の名古屋市緑区と豊明市の境)で休憩を取っていた今川義元の本陣に奇襲をかけたのです。

織田軍は見事に勝利したのです。

 

徳川家康の経歴

本能寺で織田信長が討たれるまで

1560年今川義元が亡くなったことで、徳川家康は今川家から独立することに成功し、1562年織田信長と同盟を結びました。

このとき徳川家康は20歳になっていました。

1568年(家康26歳のとき)には, 甲斐の武田信玄と組み、今川家を滅ぼします。

一方、足利義昭(あしかがよしあき)を室町幕府15代将軍に就任させた信長でしたが、義昭は信長からいくつかの指摘を受け、義昭と信長の関係は悪化していきます。

そして、義昭は各大名に信長を討つように書面を出します。

義昭からの書面に応えて信長を討つことを表明した武将は、浅井軍・朝倉軍もいましたし、戦国時代最強の騎馬軍を誇る武田信玄もそのうちのひとりでした。

織田軍と同盟を結んでいるのは徳川家のみ。

 

1572年(家康30歳のとき), 出陣した徳川家康軍を中心とした家康・信長連合軍は、三方ヶ原(現在の静岡県浜松市)で、信玄に戦いをいどみますが、ボロボロに敗れます。

しかし3年後の1575年(家康33歳)には、長篠(現在の愛知県新城市)で信長・家康連合軍は信玄の跡をついだ武田勝頼を破り、大勝利を獲得します。

1582年(家康40歳のとき), 信長・家康連合軍は、ついに宿敵武田家を滅ぼし、信長の天下統一は、まもなく達成できるという段階になっていきました。

しかし、同年、6月22日, 京の本能寺に滞在中であった信長は、明智光秀の謀反にあい、亡くなります。

そのとき、家康は堺に滞在していましたが、少数の家臣を率い、苦労して三河に戻ることに成功します。

 

織田信長死後

信長の死後、織田家で権力を握ったのは、秀吉でした。

1583年に、秀吉は信長の次男, 織田信雄(おだのぶかつ)も安土城から追い出します。

信雄が頼ったのは、織田家と同盟を結んでいた徳川家康でした。

1584年, 織田信雄と徳川の連合軍は小牧・長久手(こまき・ながくて)(愛知県)などを含め多くの場所で1年以上にわたって秀吉軍と争いますが、決着はつきませんでした。

秀吉は織田信雄に和睦を申し入れ、信雄は和睦に同意。

ここに徳川家康は秀吉と戦い続ける動機を失ったのでした。

 

1586年(家康44歳のとき)、徳川家康は秀吉の家来になり、北条攻めにも加わります。

小田原城に籠城していた北条家が秀吉軍に降伏すると、1590年(家康48歳のとき)秀吉から関東地方に所領を得て、徳川家康は江戸に移ります。

豊臣政権下で五大老(ごたいろう)に就任していた家康でしたが、1598年(家康56歳のとき),秀吉が亡くなり、秀頼の後見を託されます。

1600年(家康58歳)関ケ原の戦いで石田三成を中心とした西軍を破り、徳川家康は事実上の天下人になります。

1603年(家康61歳)には、征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きます。

1615年(家康74歳)、徳川家康は大坂夏の陣で秀吉の子、豊臣秀頼を攻め豊臣家を滅ぼします。

大坂夏の陣の翌年の1616年徳川家康は病気のため亡くなります。75歳でした。

徳川家康の性格

たぬき親父でありながら以外にも義理堅い親父

秀吉が亡くなった後の徳川家康のたぬき親父ぶりは絶好調でした。

関ケ原の戦いは、徳川方主力軍の徳川秀忠の到着が遅れている中、始まります。

豊臣恩顧の家臣である加藤清正、福島正則、黒田長政なども徳川家康の東軍として戦いました。

東軍の徳川方として参戦した豊臣恩顧の家臣たちの多くが西軍の石田三成憎しの感情は実際にありましたし、石田三成とぶつかるように仕組んできた張本人は徳川家康だったのですが、それだけではありません。

 

やはり、徳川家康の人間力が極めて優れていたからこそだと考えられます。

徳川家康の過去を振り返ってみると、織田信長と今川義元が戦った桶狭間の戦いでも、義理のある義元側の先鋒として戦っていますし、武田家と通じているとして、信長から正室築山殿を殺害して長男信康を切腹させるように命じられたときも家康は信長の意向に応えています。

負けるとわかっていても、三方ヶ原では最強の騎馬軍団武田軍に向かっていったのが徳川家康でした。

おそらく、信長や秀吉であれば、正面攻撃ではなく、他の方法を取るか戦わないかを選択したのではないでしょうか?

豊臣家を滅ぼしたのは、徳川家康ですが、秀吉の亡くなったのが1598年だったのに対して、大坂夏の陣で大阪城が消滅するのは1615年で15年以上もたっています。

それだけ徳川家の力を盤石なものにするために時間がかかったのも事実かもしれませんが、秀吉は、信長の死後、織田家の壊滅にすぐに動いており、戦国の世でありながら、信長や秀吉に比べると家康は以外にも義理堅い人だったのかもしれません。

 

自身の健康にとても気を遣っていた人

よくドラマのシーンで登場するのが、家臣が徳川家康に語っている際に薬を煎じている家康の姿です。

実際に家康は病気にかからないように普段から薬を煎じて飲んでいたようです。

現在の言い方で言えば、漢方に通じた人だったと言えるかもしれません。

家康は鷹狩も含めて毎日体を動かすようにも心掛けてもいたようですね。

栄養のことを考えて主食は、麦飯と豆味噌だったそうです。

時には、動物性たんぱく質も食してもいました。

また、旬のものを好んで食べるようにしていたそうですから、その徹底ぶりは流石です。

 

とても几帳面でデスクワークも得意だった

家臣たちの手紙やお金関係の書類も目をとおして、都度、家臣たちに書面で明確な指示をしていたそうですから、徳川家康は管理業務にも非常に優れた武将だったのです。

 

徳川家康の業績

徳川家康の功績と言えばいくつもあります。

・東京の基礎となる江戸の街を作った。
・その後250年以上存続する江戸幕府を開いた。
・武家諸法度などの法制度を作り、秩序ある国にした。

 

などなどがありますが、徳川家康は、他国との外交にも積極的に関わっていきました。

というよりも、関わらざるを得なかったのかもしれません。

徳川家康の前の秀吉の時代には、諸外国に対して刺激的な外交政策をとってきました。

例えば、朝鮮出兵や明の征服、キリスト教徒の惨殺というのもありました。

もちろん、外にたくさんの敵を抱えることは得策ではありません。

「交渉」とは、最初に相手側にもっとも高い要求をしておいて、後はどのように妥協するかを考えることだとしばしば言われますが、家康は定石通り、朝鮮や中国の明、オランダやスペインに対して、きちんと粘り強い和平に向けた交渉を続けていきました。

お隣の国、韓国では豊臣秀吉は悪名の高い侵略者ですが、徳川家康には比較的好意的です。

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まとめ

今回は250年の江戸幕府の礎を築いた徳川家康について紹介してきました。

徳川家康はよくたぬき親父と言われますが、以外に義理堅い側面もあったようです。

また健康に気を遣い、几帳面な性格でもありました。

徳川家康の意外な一面をご理解いただけましたら幸いです。

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