近代資本主義の父として名高く、2021年の大河ドラマの主人公ともなった渋沢栄一。
日本の近代化を推し進めるにあたり、500社以上もの会社を設立し、600もの教育機関、病院、団体を立ち上げていった背景には、どのような理念や理想、経営哲学があったのか。
こちらの記事では、渋沢栄一の理念や理想を紹介するとともに、渋沢栄一が確立させた日本の経営哲学を紹介していきます。
そして、実は渋沢栄一は、経営者としては上手くいっていなかったという知られざるエピソードもご紹介しながら、自らの弱みを認めて逆に周囲の人の強みを発揮させる「渋沢流マネジメント」について、掘り下げていきたいと思います。
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目次
渋沢栄一の理念や理想
まずは、渋沢栄一の理念や理想を見てみましょう。
渋沢栄一の理念を語るのに欠かせないキーワードが、「開放的な経営」です。
「開放的な経営」とは、あえて自分らしさを発揮しないこと。
渋沢栄一が活躍した明治時代は、三井や三菱などの主力財閥が活躍していましたが、その中で渋沢栄一は500社以上もの企業の設立や運営に関わり、600もの教育機関、病院、団体等の設立や運営に携わります。
しかし、いわゆる「渋沢財閥」のように、財閥の形式をとらず、あくまでも株式会社の形態を取り、民間から広く出資を募り、自らが経営の主導権を握らず、設立時点での企業規模も大きくしなかったことが大きな特色として挙げられます。
渋沢一族で主力メンバーを固めることもなく、自分のカラーを出さず、あくまでも民間主導で、「開放的な経営」を心がけていたのです。
日本の経営哲学を確立
渋沢栄一は、なぜ「開放的な経営」を目指していたのか。
その背景には、渋沢栄一自身の目指す「公益の追求」という理想の世界がありました。
自らの利益を求めるのではなく、あくまでも国全体の活力のため、そして近代日本経済の発展のために、自らが出来ることは何かを心底追求していました。
そのエッセンスが、たとえば著書の『論語と算盤』であったり、当時はまだ未知の産業だった全国の名だたる鉄道会社の経営哲学にあらわれています。
そして、当時の官尊民卑から脱却し、自らは経営の脇役として、人と企業を育て上げることに専念した渋沢栄一の理念や理想は、今日の多くの日本の企業の経営哲学や理念、社是として、またビジネスマンのモットーとして、社会を支える基盤として生き続けています。
経営者としてはダメだった
華々しい活躍をしていた渋沢栄一ですが、経営者としてのセンスについては疑問視されていた部分もあったようです。
たとえば、渋沢栄一は、自身が大蔵省の在職時代から掲げていた「製紙事業と印刷事業は文明の源泉」という考えを実現させるため、洋紙の国産化を目指し、抄紙会社を設立します。
そして明治7年(1874年)に抄紙会社の代表取締役を務めることになりますが、この会社を創立数年で潰しかけてしまいます。
手紙にも紙幣にも洋紙は必要だと考えていた渋沢栄一ですが、紙をすく際にムラが出てしまい、良質な薄い洋紙ができなかったそうです。
後に渋沢栄一の甥・大川平三郎が欧米の技術を導入することで、渋沢栄一の窮地は救われたと言われています。
また、先述のように渋沢栄一は500社以上もの会社の設立に関与しますが、経営のトップに就いたのは抄紙会社と第一国立銀行の2社だけで、その他の会社も、渋沢栄一が設立したにも関わらず、必ずしも成功していたとは言えなかったようです。
しかし、会社の設立に関わったのは、利益を上げたり、儲けを生み出すためではなく、あくまでも日本の近代化を推し進めるため。
時代の流れを読み、当時、社会から必要とされていた業種の会社を次々設立していったのです。
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まとめ
経営者としてのセンスは疑われてしまう部分もあった渋沢栄一ですが、人には誰しも弱みや弱点はあるもの。
弱い部分を出すことは決して悪いことではないのです。
弱みを認めて、正直に周囲に助けを求める渋沢栄一の「人たらし」が、この時には生かされていたのかもしれません。
自らの強みを発揮させ、周囲からの信頼を集め、多くの人たちとのご縁や関わりが深まっていく。
そして、自らが設立した会社内の人間だけでなく、周囲で関わる人達が活躍する出番やチャンスが訪れる。
渋沢栄一自身、自分の弱みを認めて、あえて一線を引いて周囲に経営権を譲ることで、周りの人物の強みや長所を引き出していた。
まさに周りの人物を引き立たせる「渋沢流マネジメント」が、発揮されていたのかもしれません。
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