織田信長の生い立ちや経歴・性格!業績を分かりやすく解説

「戦国時代の武将で誰が一番好きですか?」

こんな質問をされたら、世代に関わらず、 必ずトップ3に入るのが織田信長でしょう。

今回は、戦国時代のスーパースター織田信長の生い立ちや経歴, 性格, 信長だからこそ成し遂げられた業績についてお伝えいたします。

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目次

織田信長の生い立ち

織田信長(おだのぶなが)は1534年, 尾張の国(現在の愛知県名古屋市周辺)に織田信秀の子として生まれます。

織田信長があまりに有名で父親, 信秀について語られることは信長よりも多くありませんが、実は、信秀は武勇の面だけではなく、経済や商売にも長けた人で、尾張地方にある津島神社や熱田神宮など門前町を発展させ、他の戦国大名に比べて豊かでした。

信長は経済的に恵まれた家系に生まれたのです。

 

織田信長の経歴

1560年信長27歳のときには、数で圧倒的にまさる駿河の今川義元(いまがわ よしもと)を破ると、7年後の1567年, 信長34歳ときに美濃の斎藤竜興(さいとう たつおき)を破り、稲葉城に入場して町の名前を岐阜(ぎふ)に改めます。

翌年、1568年(信長35歳)には、逃亡中であった足利義昭(あしかがよしあき)を第15代足利将軍に就任させます。

信長を父と呼び、慕っていた足利義昭でしたが、信長に管理が悪いと指摘されて以降、摩擦が拡がり、義昭は、やがて信長を敵対視するようになっていきます。

そして、各地の大名に信長を討つように書面を送ります。

いわゆる「信長包囲網」(のぶなが ほういもう)という信長を東西南北から攻めるという政策を出します。

各大名は、義昭の要請に応え、信長に戦いを挑みます。

義昭の呼びかけに応えたのは、戦国大名たちだけではありませんでした。

一向宗や延暦寺も信長に敵対しました。

1570年(信長37歳のとき)には、姉川の戦いで浅井長政(あざい ながまさ), 朝倉義景(あさくら よしかげ)を破り、翌年1571年には、延暦寺を焼き討ちにし、長嶋一向一揆にも攻撃を開始します。

 

1572年には、戦国時代最強と言われた武田騎馬軍を誇る武田信玄も出陣します。

最初に信玄とぶつかった信長・家康連合軍は三方ヶ原の戦いで信玄軍にぼろ負けします。

しかし、武田軍は、その先は西に軍勢をすすめませんでした。

当初の予定では、東から武田家が出陣し、西からは朝倉義景が出陣し、信長を挟み内にする計画だったのですが、義景はいっこうに動きを起こしませんでした。

やがて、武田軍は、甲斐へ引き返します。

後に明らかになりますが、信玄は既に亡くなっていたのです。

 

翌年1573年(信長40歳)には、信長は、足利義昭を京から追放し、足利幕府は滅びます。

1575年(信長42歳)には、長篠の戦いで武田軍を破り、翌年1576年(43歳)のときには滋賀県の琵琶湖の近くに安土城を建立し、中国地方などを除き、信長による全国統一は、ほぼ確実に見えました。

しかし、1582年京の本能寺に滞在中、家臣であった明智光秀の謀反により49歳で亡くなるのでした。

織田信長の性格

実力第一主義で誰にでも平等

信長の最も優れていたところのひとつは、先入観なしで、誰とでも分け隔てなく付き合える資質を持っていたことでしょう。

女性に対しても、肌の色が違っていても、どんな身分の人とでも、きちんと向き合い、適切な評価をできる人間でした。

例えば、農民であった秀吉の採用や高齢で浪人ものであった明智光秀を積極的に採用しているところなどにも表われています。

信長が千利休と親しい関係になれた理由は、「茶の席では、身分に関係なくすべて平等」という利休の茶の精神を信長が受け入れ、よく理解していたためだからでしょう。

徳川家康などは、この平等の精神が肌にあわず、茶の湯にはあまり興味を示さなかったと伝えられています。

 

エネルギーに溢れた時代の革新者

信長は、伝統を尊重はするものの、伝統やしきたりにはとらわれず、そのものの良さやよりよい方法を見つける能力に優れ、自身が生きる時代をどのように生きればよいのかを考えていた武将でした。

尾張の一武将であった信長は、乱れた不安にあふれる世の中を統一し、平和が訪れる日のために終生邁進し続けます。

「天下布武」(てんかふぶ)とは、信長が朱印に使った印象の四文字ですが、天下泰平の世の中を築くという信長の強い意志を示す言葉ですね。

長い槍や鉄砲を本格的に戦いに取り入れたのも信長ですし、坊主が本来の職務を忘れて、汚職で蓄財し、酒を飲み、武器を手に取って戦いを挑んでくれば、信長は戦いました。

 

新しもの好きで、ファッショナブル

信長の肖像画などを見ると、伝統的でシックで落ち着いた着物を着ていますが、実はかなりビジュアル系でファッショナブルな身なりを好んだ人だとも言われています。

尾張(名古屋)は、よく「歌舞伎者」(かぶきもの)を輩出する土地柄だとも言われています。

歌舞伎者とは、派手好きで、色が鮮やかな女性用の赤い着物を羽織ったり、つぎはぎの生地の服を着たり、ビロードを身に着けたり、刀や身の回りの物もオシャレで派手な色のものを使ったりするのが好きな人たちのことをいいますが、信長は歌舞伎者のパイオニアでもあったようです。

部屋には外国人に贈られた地球儀を置き、地動説の話を聞いたときも、瞬時に信長は理解したと言われていますので、頭もよかったのでしょう。

 

全体的に世の中を見る人で時には冷酷に見える部分も

「天下布武」という高い目標を目指していた信長ですから、時には、家臣の武将たちに冷酷な人間に移ることもしばしばあったのだと思います。

信心深い信長の家臣は、比叡山焼き討ちの決断に不快感を示した者もいたでしょう。

しかし、将軍, 足利義昭に同調して信長包囲網を形成して、信長を滅ぼそうと計画したのは、一向宗であり、比叡山側であったこのも事実です。

戦う必要があると信長は考えたのでしょう。

中国攻めの際、秀吉が味方に引き入れた尼子氏(あまごし)が毛利軍に取り囲まれた際に秀吉の援軍要請に応えず、信長は、見捨てることを決断しましたし、

明智光秀に命じた長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)との交渉においても、以前の領地契約を一方的に破ったのは信長で、光秀は顔をつぶしてしまったこともあります。

全体の動きから判断する信長が、個別のプロジェクトに集中している家臣たちの気持ちをないがしろにすることも少なくなかったでしょう。

 

織田信長だからこその業績

信長の第一の功績は、やはり、乱れて不安な世の中を統一する道筋を作ったことでしょう。

また、封建的な社会の中で、実力主義を取り入れたことも後に多くの人に影響を与えました。

また、行政においても規制緩和をすすめました。

 

楽市楽座

以前は、座(ざ)というメンバーに所属していないと商売ができませんでしたが、この仕組みを撤廃し自由に商売ができるようにしたのが信長の楽市楽座です。

岐阜城の城下町などでは、商売が盛んに行われるようになりました。

 

関所の撤廃

当時、国境(くにざかえ)に置かれていた関所や関銭(せきせん)という通行税を撤廃したのも信長でした。

これにより、交通が便利になり、また商業も発展しました。

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まとめ

信長は1534年に尾張を統治する織田信秀の子として生まれます。

27歳の時には、駿河の今川義元を破り、34歳のときには、美濃の斎藤竜興を破り、35歳の時には、逃亡中であった足利義昭の後ろ盾となり、義昭を足利第15代の将軍に就任させます。

その後、信長と義昭との関係は、摩擦が拡がり敵対するようになりますが、信長は義昭の要請にもとづき立ち上がった戦国武将たちを次々に倒していきます。

浅井長政, 朝倉義景を破り、延暦寺や一向宗も討伐し、甲斐の武田軍も破ります。

天下統一の道筋をつけた織田信長でしたが、1582年, 本能寺で家臣の明智光秀の謀反にあい、49歳で亡くなります。

性格は、実力主義でエネルギー溢れる革新者でしたが、ファッションはオシャレで、トップとして冷酷な部分も持ち合わせていました。

信長は戦いの面だけではなく、人々の生活の発展のために尽力し、楽市楽座を設けたり、関所の撤廃なども行いました。

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