渋沢栄一と新選組に関わりがあったことを知っていますか?
新1万円札になることが決まった日本資本主義の父、渋沢栄一は「実業家」としてのイメージが強いかもしれません。
実は、栄一のイメージとは対照的な幕府派の雄である新選組とも、関わりがあったのです!
二組の関係性とは、どのようなものだったのでしょうか。
実際のエピソードとともに、ご紹介します。
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目次
渋沢栄一と新選組の関係
渋沢栄一と聞けば、官僚としてキャリアを積み、その後に実業家として広く認知された人物という印象を抱きがちです。
しかし実は、渋沢栄一は農民出身者だったのです。
裕福な農家の家系に生まれた栄一は、その明晰な頭脳を評価されて一橋家の家臣になります。
「武士へと出世した農民である」という部分が、渋沢栄一についての重要な人物背景です。
そしてこの「農民から武士へ」という背景は、新選組の成り立ちにも通ずるところがあります。
新選組も浪士たちによる非公式部隊だったので、栄一と同様の志を胸に武士として生きた者たちも多くいたことでしょう。
その後、一橋慶喜の将軍就任を機に官僚となった栄一は、1866年に陸軍奉行支配調役となり、活動の拠点を京都に移しました。
その役の任務中に、新選組と出会うことになります。
ただ、栄一が新選組と関わりを持ったのは、その一件のみだったようです。
渋沢栄一と新選組を唯一ひき合わせることとなった事件、それが「大沢源次郎捕縛事件」です。
渋沢栄一は新選組にも物怖じしなかった!
文官である渋沢栄一と、当時、武闘派集団の代名詞であった新選組の関係性は一体どのようなものだったのでしょうか。
今回は、新選組局長の近藤勇と新選組副長の土方歳三の二人、との関係にフォーカスして紹介していきます。
渋沢栄一と近藤勇のやり取りや交流
元京都見廻組の大沢源次郎を捕縛(大沢源次郎捕縛事件)する命を受けた渋沢栄一は、護衛を任せられた新選組との打ち合わせに向かいました。
そこで初めて出会ったのが新選組とその局長である「近藤勇」です。
当時の新選組は幕府側の武闘派集団として、討幕派から市民にいたるまで、あらゆる人々を恐怖させていました。
その部隊をまとめる局長、近藤勇も同様に畏怖の対象となっていました。
しかし、実際に対面した渋沢栄一が抱いた印象は、巷のうわさとかけ離れたものだったようです。
著書「処世の大道」で栄一は、近藤勇の印象についてこう語っています。
近藤勇は、世間では向こう見ずで無鉄砲な猪武者のように思われているが、実際には存外温厚な人物で無鉄砲な趣などなく、物事をよくわかる人物であった。
どうやら栄一の中での近藤勇は、巷での噂とは違い、温厚で思慮深い人物であった印象のようです。
近藤勇について、同じような印象を抱いた人物は多いようで、様々な歴史的文献に同様の記述が残っています。
また、「処世の大道」によると、大沢源次郎捕縛事件の打ち合わせでの邂逅を含め、渋沢栄一は近藤勇と2度ほど顔を合わせているとのことです。
渋沢栄一と土方歳三のやり取りや交流
土方歳三との出会いも大沢源次郎捕縛事件に関わってきます。
近藤勇との打ち合わせの数日後、渋沢栄一の護衛として新選組の隊士が数人集められました。
その部隊の隊長として参上したのが新選組副長、土方歳三です。
二人は出会ったその時に、お互いの緊迫感を共有したようです。
その後、より詳細な段取りを確認しすることとなったのですが、そこである問題が発生しました。
「渋沢栄一の申し渡し」と「大沢源次郎の捕縛」の順番についてです。
申し渡しというのは、現在当人にかけられている容疑を宣告し、対応を求めることです。
現代に置き換えると、逮捕状の提示に相当する行為でしょう。
もちろん本来は捕縛の前に、この申し渡しを行わなければなりません。
しかし、大沢源次郎は元見廻組の隊士で剣の腕前は相当なものだったと思われます。
新選組からすると、そのような容疑者に対して一人で乗り込むのは危険だ、という判断だったのでしょう。
また、新選組は護衛任務についているため、栄一に傷を負わせることは恥といえます。
どちらの意見にも理があるように思えますが、栄一は一歩も引きませんでした。
当時の新選組の勢いに気圧されず、栄一が自らの意見を強く主張した結果、土方歳三がその覚悟を立てるかたちで決着しました。
結局、二組はその場で和解して任務に出向いたようです。
渋沢栄一は文官ではありましたが、元は農民の生まれです。
浪士から武士へとなった新選組と似通ったルーツ持っていたので、叩き上げの者同士、気が合ったのかもしれません。
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まとめ
今回は渋沢栄一と新選組の関係について、ご紹介しました。
実業家として名高い栄一には、新選組と渡り合う気概もあったことが見て取れます。
明治維新以降、全く違う運命を辿ることになる両者には、このような出会いと関係性があったわけです。
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