あなたは一条美賀子という女性を知っていますか?
一条美賀子は徳川慶喜の正室として歴史に残った人物です。
今回は徳川慶喜と一条美賀子の関係について、またその辞世の句にも触れながらご紹介していきます。
日本が近代化へと進む道に大きな足掛かりをつくった、最後の将軍「徳川慶喜」。
彼の正室はいったいどのような人物だったのでしょうか。
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目次
徳川慶喜の正室は一条美賀子
まずはこの夫婦の驚くべき始まりについて、ご紹介します。
徳川慶喜の正室は一条美賀子ですが、当初は違う人物が選ばれていました。
関白である一条忠香の娘である千代君が徳川慶喜の正室として、一橋家に迎え入れられる予定だったのです。
しかし婚儀の直前、千代君が疱瘡を患い亡くなってしまいます。
かくして急遽、代役に選ばれ婚儀を行ったのが一条忠香の養女となっていた美賀子でした。
突然の選抜だったため、美賀子は千代君の用意していた嫁入り道具をそのまま持って出ていったそうです。
このような経緯で晴れて夫婦となった徳川慶喜と美賀子ですが、結婚生活はうまくいきませんでした。
急に現れた人同士の結婚がうまくいくわけはなく、夫婦仲は悪化していきます。
現代で言うところの姑問題のような状況も、この悪循環に拍車をかけました。
その後、美賀子が女子を懐妊、出産します。
3年の夫婦生活でようやくできた我が子の誕生。
これで良くない現状を打破できるかと思われていました。
しかし、その娘が4日で夭折(ようせつ)してしまい美賀子の苦難は続くことになります。
その後、慶喜が14代将軍徳川家茂の後見職として上洛し、長い別居生活が始まります。
また、徳川慶喜は将軍現役中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍として知られています。
したがって、美賀子が大奥に入城することもありませんでした。
1868年、幕府が崩壊し将軍職を手放した慶喜が江戸に戻ります。
この時、慶喜は謹慎中だったため、美賀子は面会することができませんでした。
明治維新が終わり、慶喜が隠居生活を始めた際も、美賀子は東京の一橋邸に身を置いていました。
ここまで徳川慶喜と美賀子の夫婦の歴史をさかのぼってきました。
読んでいただければわかる通り、あまり幸せな夫婦生活には思えませんよね。
では実際の関係性はどのように変化し、保たれていたのでしょうか。
徳川慶喜と一条美賀子の関係
先述した通り、徳川慶喜と美賀子の結婚当初の関係性は思わしいものではありません。
結婚して一橋邸に移り住んだ美賀子を最初に悩ませたのは、慶喜の義母である一橋直子です。
慶喜と直子の関係は非常に良好だったと言われています。
夫と仲の良い義母との同居という状況からだけでも、生活に馴染めず頼れる人物もいないという美賀子の苦悩が容易に想像できます。
次に美賀子を悩ませたのは、不妊の問題でした。
当時の嫁に行った女性が、人間関係を円滑にする最も効果的な方法は、男子を懐妊することです。
美賀子も子を授かることを強く望むようになりました。
しかし、3年目になるまで子宝に恵まれませんでした。
やっとうまれた女子も数日で夭折してしまい、美賀子はまたしても大きな苦悩を抱えるようになります。
極めつけは、夫との別居です。
物理的に距離が離れてしまうことは、関係を悪くする大きな要因になり得ます。
決して順風満帆とは言えない結婚生活を送っていた美賀子にとって、夫との別居は関係悪化の決定打となり、そこからの交流は少なくなっていきます。
ただ、悪い事だけではありません。
明治維新後、静岡に隠居した徳川慶喜についていくかたちで再び同居が始まります。
美賀子は体が弱かったため子供はできませんでしたが、慶喜と側室の間には多くの子供が生まれました。
その子供たちは全員、美賀子が実母として育てることになります。
子宝に恵まれなかった美賀子にとって癒しになったとも考えられますね。
また、夫婦仲も徐々に回復し、良好な関係性を築けていた、という話も残っています。
一条美賀子の辞世の句と意味
1894年、一条美賀子は乳がんを発症し、60歳でこの世を去りました。
ここで一条美賀子の辞世の句をご紹介します。
かくはかり うたて別をするか路に つきぬ名残は ふちのしらゆき
正確に現代語訳した文章が見つからなかったため筆者の主観で訳してみると意味はこうなります。
このようなものかと推し量る。全く別の方向の道にある、つきぬ思い残しは富士の白雪である。
といったかんじでしょうか。
最後に夫と子供たちと過ごした静岡に想いを馳せつつ、自分とは相容れなかった慶喜との半生を詠った句だと考えられます。
思い通りの幸せをつかむには至らなかった一条美賀子は、強い名残を持って亡くなってしまったのかもしれません。
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まとめ
今回は、徳川慶喜と一条美賀子の夫婦としての歩みを紹介してきました。
現代の女性にも通じる苦悩を抱えた一条美賀子の生涯は、多くの女性に深い共感を与えることでしょう。
普遍的な苦難を抱えた偉人や歴史上の人物は数多くいます。その人について知り共感することも、歴史の楽しみ方の一つかもしれません。
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