NHK大河ドラマ『青天を衝け』で吉沢亮さんが演じる主人公、渋沢栄一。
2024年に発行される予定の新一万円札の顔にも選ばれ、今後ますます注目されていく日本を代表する実業家です。
一方、現在の一万円札の顔であり、慶應義塾の創始者でもある福沢諭吉。
二人は同じ時代に日本の近代化に尽力しますが、生まれも育ちも考え方も、まったくの真逆だったと言われます。
今回は、そんな対照的な渋沢栄一と福沢諭吉の共通点や関係性、また二人が将棋で対局した時のエピソードをご紹介していきたいと思います。
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目次
渋沢栄一と福沢諭吉の共通点
渋沢栄一は日本の実業界の父として、著書『論語と算盤』の中で「溌剌(はつらつ)たる進取の気力を養い、且つ発揮するには、真に独立独歩の人とならねばならぬ」と述べ、「独立自営」の精神を強調しています。
独立自営の精神の元で渋沢栄一は500社もの企業の設立に関わり、600もの教育機関や病院、団体などの運営に携わりました。
一方、福沢諭吉は日本の教育界の父として、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の冒頭で有名な『学問のすすめ』を著しました。
著書の中で福沢諭吉は「独立自尊」の精神を述べています。
独立自尊とは、何事も人に頼らず自分の力で行ない、自己の品格や尊厳を保つことを言います。
その精神を伝えるべく1858年に設立されたのが、かの慶應義塾です。
こうして個人の独立を促し「実業に活かさなければ学問ではない」という渋沢栄一と、「読書だけが学問ではなく、実学を通じて一身の独立を果たすこと」を述べた福沢諭吉。
いずれも個人の独立精神を促していますが、その背景には、渋沢栄一は農家の出、福沢諭吉は下級武士の家柄で、二人とも身分的に恵まれなかったことや、挫折経験、海外渡航で見識を広めたことなどが大きく影響していると言えるのかもしれません。
ちなみに、二人の独立精神が結集して完成した現存する建物として、かの東京丸の内の帝国劇場が挙げられます。
1905年に帝国劇場新設の委員長を務めたのは、当時何十社もの経営に関わっていた渋沢栄一だったのですが、福沢諭吉も劇場設立の議論が上がる前(1893年)に、すでに丸の内界隈に劇場を建設することを、当時の岩崎家(三菱)の関係者に手紙を送っていたのだそうです。
三菱が丸の内の広大な土地を取得して開発していることに目を付け、古いしきたりを改め、芝居の地位を高めて学者が芝居を仕事にするように計画し、劇場建設を呼びかけていたのです。
実際、1894年に日清戦争が勃発して計画は中止になるも、福沢諭吉の死後、1911年に帝国劇場が完成し、今日も数多くの舞台で人気を博しています。
渋沢栄一と福沢諭吉の関係
こうして個人の独立精神の重要性を説いた渋沢栄一と福沢諭吉でしたが、お互いのことはどう思っていたのでしょうか。
二人が初めて会ったのは1869年、渋沢栄一が旧制を改革するため、大隈重信から諮問機関の「改正掛(かいせいがかり)」の長に任命された時でした。
渋沢栄一は貨幣制度や租税改正、度量衡改正、駅逓制度整備などを提言するため、『西洋事情』の著者で外国の諸制度に詳しい福沢諭吉に意見を求めます。
この時渋沢栄一が31歳、福沢諭吉が37歳の時でした。
福沢諭吉に刺激を受けた渋沢栄一は、やがて大蔵大丞(おおくらだいじょう)に昇進し、紙幣頭として日本の諸制度を整備していきます。
その後も事あるごとに関わりを持ち、日本の近代化に尽力する二人でしたが、唯一『論語』に対しては真逆の見解を示していました。
渋沢栄一は『論語と算盤』の中で「算盤は論語によってできている。論語もまた、算盤によって本当の経済活動と結びついてくる。だからこそ論語と算盤は、とてもかけ離れているように見えて、実はとても近いものである」と述べています。
この『論語と算盤』の精神が、現代にも続く企業や団体設立のスピリットになっていったと言えるでしょう。
一方で、福沢諭吉は『福翁自伝』や『学問のすすめ』の中で、論語や儒教に代表される孔子の思想を「民衆の心を権限で束縛する道」として、「二千年前の教えをそっくりそのまま学ぼうとする者は、語る資格のない人」として、儒教の教えが日本の近代化を阻んでいると痛烈に批判しています。
こうした『論語』に対して正反対の思想を持つようになった背景には、江戸時代のいわゆる「士農工商」の身分制度の中で、渋沢栄一が農民出身で、福沢諭吉が下級藩士(武士)だったという身分の違いがあったからだとも言われています。
渋沢栄一と福沢諭吉の将棋の対局
そんな身分的にも思想的にも異なる渋沢栄一と福沢諭吉ですが、こぼれ話として二人が将棋を指したというエピソードも残っています。
結果として渋沢栄一が勝ったそうですが、福沢諭吉は渋沢栄一を「商売人にしては割合強い」と厳しく批判します。
一方の渋沢栄一も、福沢諭吉を「ヘボ学者にしては強い」と評価し、「独立」をモットーとする両者の負けん気あふれる対局だったそうです。
ちなみに渋沢栄一自身、将棋を指すと日常の時間を取られてしまうということで、後に渋沢邸に寄宿していた書生たちによって「竜門社(渋沢栄一記念財団の前身)」が結成された頃には、将棋を指すのを辞めたそうです。
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まとめ
今回は現在の一万円札の顔・福沢諭吉と、新一万円札の顔・渋沢栄一の二人の関係性についてお伝えしました。
二人に共通して言えるのは、生涯に渡って学び続けたということ。
人は何歳になっても成長できることを、二人の生き方を通じてあらためて考えさせられます。
技術化が進みキャッシュレス決済も増え、貨幣流通の減少も取り沙汰される中で、2024年に新紙幣が発行される頃には、渋沢栄一の精神がどこまで日本の経済に再び反映されていくのか、楽しみなところです。
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