三野村利左衛門の本名や幼名は?経歴や小野組の破綻についても

時は幕末、三井(後の三井財閥)は本店(ほんだな)や両替店などの事業が不振に陥っていました。

幕末から明治への日本の経済混乱期の中で、一介の商人から三井の大番頭へと駆け上り、三井の窮地を救った男、それが三野村利左衛門でした。

その後も三井銀行(現在の三井住友銀行)の設立に尽力するなど、私たちの生活にも深く関わっている人物でもあります。

今回は、そんな三野村利左衛門の本名や経歴、活躍をご紹介します。

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目次

三野村利左衛門の本名や幼名

小野村利左衛門の本名は、利八と言います。

後述しますが、元々は庄内(現在の山形県)の出身ですが、父が木村家を出て浪人になったため、14歳で京都に上洛し、諸国を放浪した後に江戸へ出ます。

そして、19歳の時に江戸・深川の丸屋という問屋で住み込み奉公をします。

その時の働きぶりが認められ、江戸・駿河台に屋敷を構える旗本・小栗忠順に仲間奉公をします。

そして、25歳で神田三河町で油や砂糖を販売していた紀伊国屋の美野川利八に見込まれ、利八の娘の婿養子となります。

その際に「利八」の名前を襲名し、紀伊国屋を継ぎます。

1852年(嘉永5年)、元々は両替屋の株を三井両替店に売るなど三井とは取引がありましたが、三井に課せられた御用金の減免交渉をしたことがきっかけで、また小栗忠順とも親しかったことから、1866年(慶応2年)に新しく設けられた三井御用所に小栗と三井の間をつなぐパイプ役として「通勤支配」(取締役)に任命され、「利八」から「三野村利左衛門」に改名しました。

ちなみに「三野村」は、三井の「三」、美野川の「野」、実の父親の木村姓の「村」から取って名づけたとされています。

また、三野村利左衛門の幼名は伝わっておりませんが、実の父親が木村家を出て浪人となり、親子で放浪関係になるなど、幼い頃は大変苦労したと言われています。

三野村利左衛門の経歴

先述した通り、三野村利左衛門は家庭環境で苦労したと言われています。

1821年(文政4年)に庄内で生まれるも、父親の松三郎が周囲から嫌われ、三野村利左衛門の姉とともに西国を放浪、父親は現在の宮崎県で亡くなったとされています。

そして、その後も三野村利左衛門は地道に努力を重ね、官僚の小栗忠順に気に入られ、奉公することになります。

これは、本人の性格的な所もあったと言われています。

その後も三井から命じられた幕府御用金の減免交渉をきっかけに三井家の使用人になり、戊辰戦争の時は三井家を佐幕から勤皇へ方針転換させて朝廷側につかせるなど、大きな役割を果たしました。

その後、大政奉還で明治時代になり、三野村利左衛門は三井の近代金融業の発展に力を入れます。

明治政府の金融政策面を支えた三井組は、三野村利左衛門の下で単独の銀行設立を目指しますが、当時の大蔵省官僚だった渋沢栄一に反対され、1873年(明治6年)に三井・小野の両組合作による第一国立銀行を発足させます。

こうした中でも、三野村利左衛門は銀行の単独設立をあきらめず、1874年(明治7年)に小野組が倒産したことをきっかけに、第一国立銀行から手を引き、1876年(明治9年)に日本初の民間銀行である三井銀行を設立します。

1877年(明治10年)に57歳で亡くなるまで、日本の近代経済発展に尽力したと言われています。

小野組の破綻ついて

三井銀行設立の契機となった小野組の破綻。

元々は初代の小野善助が「井筒屋」を名乗っていた糸割符商人で、幕末から明治にかけて新政府から御為替方と称されるほど成長しましたが、政府の金融政策の変化に対応できず、明治前期に破綻しました。

元々、小野組は為替方であることから多額のお金を無金利で運用し、生糸貿易を手がけていました。

1871年(明治4年)には、築地生糸所を創立し、群馬、長野、福島などでも製糸場を経営、東北地方の鉱山経営にも着手しました。

生糸取引は古河市兵衛が、為替店は小野善衛門がまとめていましたが、1872年(明治5年)に渋沢栄一の仲介によって、三井組とともに「三井小野組合銀行」(渋沢栄一が創設した第一国立銀行の前身で、現在のみずほ銀行)を設立します。

しかし、先述のように、三井組は独自に日本初の民間銀行である「三井銀行」(現在の三井住友銀行)を設立し、規模を拡大させていきます。

小野組も1873年(明治6年)に全国の支店約40と、大阪府の外28県と為替契約を結び、三井組を凌駕しましたが、1874年に政府の一方的な金融政策の急変により、小野組は御用御免を願い出ます。

資金を全て大蔵省に提出して精算し、1877年(明治10年)に処分が完了します。

その後、大蔵省は小野組の官金委託を第一国立銀行に切り替え、財産を没収します。

1884年(明治17年)に小野組も権利義務を移して小野商会を設立し、1897年(明治30年)頃まで営業を続けますが、やがて解散してしまいます。

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まとめ

三井組の発展に貢献した三野村利左衛門の活躍と、小野組の破綻。その背景には、幕末から明治時代にかけての混乱期に、近代日本経済の発展に尽力した男たちの活躍がありました。

現代の日本経済発展の歴史を紐解いてみると、誰一人として欠けてはならなかった、その大きな歴史の流れやうねりを感じ取ることができるでしょう。

昨今のコロナ禍における社会的、経済的状況の中、彼らの活躍に敬意を払いつつ、ふただび日本の経済を復活させていかなければならない。

そんな風に奮い立たせてくれる数字の鬼才・三野村利左衛門の活躍をご紹介しました。

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