井伊直弼は何をした人? 業績や功績の簡単まとめと評価についても

井伊直弼(いいなおすけ)といえば、「安政の大獄」「桜田門外の変」を連想する方が多いのではないでしょうか。

映画やドラマなどの作中では、自分の政策に批判する者を弾圧して、恐怖政治を行った悪役として描かれることが多い人物ですが、実際はどうだったのでしょうか。

この記事では、井伊直弼がどんな人物だったのか、何をしてどのような影響を与えた人物なのか、わかりやすくご紹介します。

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目次

井伊直弼はどんな人

徳川幕府末期に大老を務めた井伊直弼はどんな人物だったのでしょうか。

簡単に紹介します。

井伊直弼(1815~1860)
近江彦根藩15代藩主・江戸幕府の大老父:井伊直中(彦根藩第13代藩主)
母:お富の方(直中の側室)
妻:井伊昌子(正室)井伊直中の14男として生まれ、「埋木舎」 にて部屋住みとして不遇な15年間を過ごしています。

 

悪人のイメージが強い井伊直弼ですが、実は優しい藩主でした

井伊直弼は、日米修好通商条約の強引な締結や、自分に歯向かう志士達を弾圧し、反感を買って暗殺されたという悪人のイメージをされるか人が多いです。

しかし実際は、茶道や歌道に打ち込む勉強熱心な面を持っていたり、貧困や病に苦しむ藩の人々を救済する、慈悲深い人物でもあったのです。

井伊直弼は何をした人

井伊直弼を語る上で、欠かせないのが下記の4つのキーワードです。

・茶湯一会集
・日米修好通商条約締結
・安政の大獄
・桜田門外の変

日米修好通商条約・安政の大獄・桜田門外の変については、経緯を押さえた後にさらに詳しく解説します。

茶湯一会集

井伊直弼は「埋木舎」という質素な屋敷で、茶の湯の研さんに力を注ぎ、31歳の時に自分で茶道の流派を建てることを決意します。

直弼の茶の湯の集大成である「茶湯一会集」では、

何度同じ参加者で茶会を開いても、同じものは二度とない。一生に一度の出会いである。だからこそ、その一度に真剣に向き合うべきである。

という「一期一会」の精神が語られています。

この「一期一会」という言葉は井伊直弼が世に広めたとされています

井伊直弼の業績や功績の簡単まとめ

ここからは井伊直弼の業績や功績を簡単にまとめて紹介していきます。

桜田門外の変に至るまでの経緯

1858年に井伊直弼は、孝明天皇の意見を無視し、強引に日米修好通商条約を締結します。

これにより、尊王攘夷(天皇を尊重し、外国人を日本から追い出そうという思想)派の人々から多くの批判を集めることになります。

これに憤慨した直弼は、尊王攘夷派の大名や公卿・志士達約100名以上の処罰を強行します。

これが安政の大獄と呼ばれる弾圧事件です。

そういった独裁のふるまいに対し、水戸藩・薩摩藩の浪士らが江戸城の桜田門外にて、彦根藩の行列を襲撃、井伊直弼を暗殺しました。

この事件がかの有名な桜田門外の変といいます。

日米修好通商条約の締結:強い決断力で開国を推進

1858年 井伊直弼は「大老」という役職につき、政務を執っていました。

このとき、ペリーやハリスが来日し、貿易をするため開国するよう迫ります。

直弼は、当時の日本の状態でアメリカと戦うことは賢明ではないと判断し、開国に応じる決断をしますが、当時の天皇・孝明天皇は激しく反対します。

しかし、直弼は天皇の反対を押し切って「日米修好通商条約」を締結します。

アメリカに領事裁判権(アメリカ人が自国の領事による裁判を受ける権利)を認めた他、日本に関税自主権(輸入品に対して自主的に関税を決める権利)がないという、不平等で日本が不利な条約でしたがアメリカと戦っても勝ち目はない日本は、腹をくくって条約を飲むほかなかったのです。

これにより、当時の民衆はさらに外国人を忌み嫌うことに繋がり、尊王攘夷の思想が強まります。

条約の締結を押し進めた直弼には、多くの批判が集まりました。

安政の大獄:反発する尊王攘夷派を処罰

日米修好通商条約締結に激しく反発した尊王攘夷派は、孝明天皇に働きかけ、「戊午の密勅」を受けることとなります。

戊午の密勅とは、孝明天皇が攘夷派の代表である水戸藩に対して出した、秘密の命令です。

この命令が、幕府を通り越して水戸藩へ直接出されたことで、幕府の権威を大きく失墜させました。

この一連の流れに対し、幕府を守らなければと考えた井伊直弼は、戊午の密勅に関わった人物を処罰します。

公家や大名、志士ら100名以上が処罰の対象となり、吉田松陰・橋本左内ら8名が死刑になりました。

“自分の政策に反発する者は根こそぎ処罰してやる” というような冷酷で非道なイメージの井伊直弼ですが、彼は彼なりに幕府を守ろうという信念のもと行動していたのです。

桜田門外の変:決行された暗殺計画

安政の大獄を機に激化した尊王攘夷派の人々は、井伊直弼の暗殺計画を練ります。

彼らは水戸藩を脱藩し、薩摩藩の一部とも手を結んで暗殺を決行するのです。

1860年3月3日、井伊直弼は「桃の節句」の祝賀のため江戸城に向かいました。

江戸城の入口付近、桜田門に近づいたとき、直弼の護衛隊が水戸浪士に襲撃を受けます。

周囲の注目が護衛隊に注がれる中、直弼の乗っていた籠に銃弾が打ち込まれます。

銃声を皮切りに、水戸浪士たちは直弼の乗る籠めがけて切り込み、首を討ち取りました。

季節はずれの雪が降ったこの日、一面雪で覆われていた銀世界は気づけば血で赤く染まっていたといいます。

井伊直弼の評価

生真面目さゆえに批判も受けるが、地元では愛される名君

井伊直弼は、安政の大獄を行った独裁者と評される一方で、藩民に寄り添った政治を行う名君とされる人物です。

直弼は生真面目で、強い決断力を持って日本の開国を進めました。

思ったことははっきり口にするので、恨みを買いやすかったことに加えて、強引に物事を進めていくので、横暴だと評価されることもあったようです。

しかし、庶民から敬愛された名君と評価する意見も多くありました。

直弼は藩主に就任した際、兄・直亮の遺産を家臣や藩の人々に分け与え、病気や貧困に悩む人々に支援を行うなど、藩民に寄り添う政治を行ってきました

安政の大獄で殺されることになる吉田松陰は

領民に対する憐れみの心を持った名君だ

と評価しています。

現代では藩の改革を成功させた名君として評価されており、彦根市では特に評価が高く市民からは非常に愛され親しまれています。

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まとめ

井伊直弼は、晩年の行動がフォーカスされ、悪人のイメージを持たれがちですが実際は藩の改革や、日本を守るために日米修好通商条約を締結したりと、功績を残した人物でもあります。

幕末政治に重要な役割を果たした人物と言えるでしょう。

彼自身の正義に従ってとった行動は、多くの批判を浴びましたが、彼も時代に翻弄された一人なのではないでしょうか。

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