江戸末期の備後国福山藩の藩主であり、江戸幕府の老中を務めた阿部正弘。
開国に意欲的で安政の改革に取り組み、大胆な政策で幕府の新体制を築いた人物です。
そんな正弘は39才という若さでこの世を去りますが、短い生涯で正弘はどのような名言を残していったのでしょうか。
エピソードを交えながら、わかりやすく解説します。
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目次
阿部正弘の名言の意味や意図を簡単に説明
正弘は、新時代を切り開き担っていく人材が必要と考え、人材育成のために「誠之館」という藩校を作りました。
「誠之館」という名前は孔子の「中庸」からとってつけられた名前です。
「中庸」には「誠は天の道なり、誠之は人の道なり」と説かれています。
開校に際し、正弘が直筆した「誠之館御諭書」には人としてどうあるべきかという指針や名言が綴られています。
その中から2つと、正弘の大事にしていた考え方についての名言をご紹介します。
誠之館御諭書:儒教の教えに基づき、文武両道に励むべし
阿部正弘は儒教の教えを忠実に基づき、「勉学に励み、知恵をつけて物事を正しく判断しなければならない」、「主君への忠誠や親孝行が大切である」ということを伝えたかったのではないでしょうか。
現代に生きる私たちは、武士の名に恥じぬよう・・・というわけにはいきませんが、親孝行をしっかりして、善悪が判断できる大人にならなければなりませんね。
阿部正弘の考え方:人の話をよく聞き、よく考えて発言すべし
正弘は、自分の意見を主張するとそれを証拠にされることを恐れていたようです。
自分の立場を考えて発言しないと、失言で失脚・・・なんてことも危惧していました。
人が話すことをよく聞いて記憶し、良いことは取り入れて、悪いことは捨てるように心がけていたそうです。
また、その場の思い付きで発言するとこれもまた失言につながりかねないので、よく考えて発言しなければいけないと語っています。
現代社会では失言で炎上し、辞職する政治家や活動休止に追い込まれる有名人も少なくありません。
何気なく発言した言葉が切り取られて、大きな問題になる時代ですが、正弘は江戸の時代から言葉の危険性に気づいていたのですね。
阿部正弘の逸話・エピソード
若くして老中に抜擢され、老中首座(幕府の最高権力者)までのぼりつめた阿部正弘は、かなり有能でエリート街道を歩んでいたと言えます。
思慮深く、切れ者な人物像が浮かびますが、実際はどのような人物だったのでしょうか。
阿部正弘の人となりが見えてくるエピソードをご紹介します。
阿部正弘がイケメンだったという説が現代にも伝わっています。
肖像画をみてみると、高貴な感じの顔立ちですが若干ふっくらしていて、現代の私たちが考えるイケメンとは少し違うような気もします。
しかし、彼がイケメンでモテていたと言われる理由は顔ではなかったようです。
阿部正弘は穏やかでいつも笑顔、そして聞き上手だったと言われています。
それゆえに八方美人だという評価をされることもありましたが、仕事ができる切れ者であったにも関わらず、ニコニコと人の話を聞く正弘に惹かれる女性も多かったのではないでしょうか。
実際大奥での人気はすさまじく、正弘が大奥に御老中まわりに行くとなれば大奥の女性たちは、その姿を一目見ようと障子に張り付いて様子をうかがおうとしていたそうです。
なかには阿部家の家紋をデザインしたかんざしをする大奥の女性もいたそうです。
大奥の女性達をそこまで魅了する正弘は、イケメンだと言えるでしょう。
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まとめ
現代ではSNSでいつでも繋がり、どこにいる相手にでも簡単に意見や感情を発することができるようになりました。
簡単に言葉で繋がれるからこそ、人を簡単に傷つけてしまったり、自分で自分の首を絞めるような発言をしてしまう可能性があることも事実です。
そんな言葉の危険性に目をつけていた正弘はやはり切れ者なのだと感じます。
正弘の言葉を思い出し、“よく考えて発言すること”、“自分の発言には責任を持つこと”が現代の私たちには必要なのではないでしょうか。
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