2018年2月に日本で公開された「グレイテストショーマン」。
実在した興行師P・T・バーナムを主人公に据えた、伝記的ミュージカル映画です。
フリーク・ショー(見世物小屋)で働く、様々な事情を抱えた人々がその運命に向き合うひたむきな姿や、「ラ・ラ・ランド」の音楽を手掛けたベンジ・パセックらが音楽制作に関わったことでできあがった素晴らしい音楽の数々が話題を呼び、日本では50億円を超える興行を達成しました。
「グレイテストショーマン」には、個性豊かな人物が数多く登場しますが、中でも伝説のオペラ歌手ジェニー・リンド(レベッカ・ファーガソン)の存在はひときわ目立って描かれています。
劇中では、バーナム(ヒュー・ジャックマン)によって引き抜かれ、公演を大成功させるとともに、「ネバーイナフ」の歌唱シーンに見られるように、バーナムへの密やかな好意も垣間見えます。
グレイテストショーマンが実際に起きた出来事を描いているように、ジェニー・リンドも実在した人物です。
実際のジェニー・リンドとはどのような人物で、バーナムとはどのような関係にあったのでしょうか。
今回は、実在したジェニー・リンドに焦点を当て、「グレイテストショーマン」をさらにおもしろく観るための豆知識をご紹介します。
[ad#1]目次
ジェニー・リンドはバーナムと恋愛関係にあった?
ジェニー・リンドのプロフィール
名前:ヨハンナ・マリア・リンド
生年月日:1820年10月6日(67歳没)
出生地:スウェーデン・ストックホルム生まれ
職業:ソプラノ歌手
ジェニー・リンドは1820年にスウェーデンで生まれたオペラ歌手です。
10歳には舞台に立った19世紀に非常に注目を集めた有名な歌手で、のちに「スウェーデンのナイチンゲール」と称されるようになります。
ジェニー・リンドは1844年ころにメンデルスゾーンという音楽家に出会います。
はっきりとしたことは分かっていませんが、ジェニー・リンドとメンデルスゾーンは恋人関係にあったのではないかと推測されています。
しかし、1847年11月にメンデルスゾーンが亡くなり、ジェニー・リンドはかねてより抱いていた夢を実現するために動きだします。
その夢とは、「メンデルスゾーンの名前の含まれる音楽院を創設すること」でした。
しかし、音楽院創設に必要な資金援助を得られず、代わりに音楽教育を促進するための奨学基金を設立しました。
それから、2年ほどし、すでに見世物小屋で成功を収めていたバーナムがジェニー・リンドのもとにアメリカツアーの提案をしにやってきます。
ジェニー・リンドはそのツアーのギャランティを奨学基金といった慈善事業に充てることができると考え、両者はツアーを決行することを決めます。
ジェニー・リンドとバーナムが恋仲であったという記録はなく、経緯から見ても、あくまでもビジネスパートナーであったことと考えられます。
とはいえ、アメリカツアーは大成功を収め、全93回の興行でジェニー・リンドは35万ドル以上(当時)を手にし、もともとのねらいであった慈善事業の推進を果たします。
[ad#3]バーナムと破局したその後のジェニー・リンド
バーナム運営のアメリカツアーは大成功を収めますが、1851年ごろからジェニー・リンドは居心地の悪さを感じるようになります。
そこには、バーナムの強引な運営方法に原因がありました。
ジェニー・リンドは契約破棄をする権利を行使し、最終的に平和的に別れることになります。
ジェニー・リンドはその後1年ほどは自身の運営でツアーを継続しました。
ツアー終盤の1852年の2月には、指揮者のオットー・ゴルトシュミットと結婚しました。
その後、夫とともにヨーロッパに戻ったジェニー・リンドは、1855年から亡くなるまで、イングランドに住み続けました。
その間、3人の子どもに恵まれます。
家庭生活は充実していたようですが、ツアー後は公演の回数を減らし、1883年には歌の世界から引退しました。
それでも、1882年からの数年は、王立音楽大学の声楽科で教鞭を執り、後進の育成に尽力しました。
1887年11月2日に67年の生涯の幕が下ります。
優れたオペラ公演を行っただけでなく、後進の育成のために慈善事業や教職にも精力的に取り組んだジェニー・リンドの生き方はドイツ映画「スウェーデンのナイチンゲール」などといった映画にもなりました。
[ad#2]まとめ
様々な魅力のある「グレイテストショーマン」は、何度観返しても楽しめる名作映画です。
史実をもとにしているため、今回ご紹介したリンドの生涯のように、映画と史実とを比べてから観なおすことで、新たな気付きや発見が得られるかもしれません。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
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