今回は徳川慶喜と篤姫(あつひめ)や和宮(かずのみや)との関係について、ご紹介します。
15代将軍「徳川慶喜」は、幕末における聡明な政治家として多くの功績を残しました。
そのころと時を同じくして、江戸の女性権力者として有名だったのが「篤姫」と「和宮」です。
彼らにはどういった関係性があったのでしょうか。
また、相性は良かったのでしょうか。
この記事では各人の性格にフォーカスしつつ、それらを明らかにしていきたいと思います。
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目次
徳川慶喜と篤姫や和宮の関係
まずは徳川慶喜と篤姫や和宮の表面的な共通点にふれておきましょう。
それは「徳川家の人間である」という点です。
さらに詳しく「徳川将軍に関わりのある人間である」とすることもできます。
まず徳川慶喜自身は15代将軍として、幕府の最期を決めた近代日本にとって、非常に重要な人物です。
また、篤姫は13代将軍徳川家定の3人目の妻です。
その後大奥を取り仕切ることになる女性権力者でもありました。
和宮は14代将軍徳川家茂の妻です。
和宮も篤姫らと大奥で暮らした女性権力者でした。
皇室の出身なので身分的にも高い位にあったとされています。
3人とも当時の傾きかけていた幕府のなかで政治を行った人物であり、少なくない関わりがあったことがうかがえます。
しかし、実際の関係や相性は良いものだったのでしょうか。
それを読み解くには、3人各々の性格について知っておく必要があるでしょう。
徳川慶喜の性格や考え
徳川慶喜といえば、大政奉還や江戸城無血開城などの「身を切る政策」が功績としてよく語られます。
自分の立場を理解し、自己の利益だけでなく民を思いやることのできる人物。
これが功績から考察できる慶喜の人物像です。
しかし、篤姫や和宮は慶喜に対照的な印象を抱いていたとされています。
というのも、慶喜には女性を軽視する傾向がたびたび見られたようなのです。
現代において男尊女卑は排斥されつつある考え方ですが、当時の日本ではごく一般的な概念でした。
慶喜はその考えが強かったようで、女性でありながらパワフルに政治に参加しようとする篤姫や和宮から良い印象を持たれることは少なかったようです。
篤姫の性格や考え
篤姫は薩摩藩主をつとめる島津家の一門に生まれた後、島津斉彬の養女となり、13代将軍徳川家定に嫁ぐこととなった人物です。
幼少のころから筋の通った性格であり、「それで男だったらなぁ…。」と父に惜しまれたという話も残っています。
大奥に入った後も、直接政治に関わる姿勢を見せるなど積極的で向上心のある女性だったことがうかがえます。
ただ、幕府から薩摩へ還るようにとの通達があった際、その命は不服だとして断固拒否したことがあったそう。
懐刀まで持ち出して、「私を薩摩に還すなら、今ここで自害します。」と言ってのけたというのは有名な話のようです。
武家出身であるとはいえ、相当な胆力の持ち主だと言えるでしょう。
これらの事柄から、篤姫は政治にも積極的な姿勢をもつ強い女性であったことがわかります。
そして同時に、非常に頑固で腹の据わった性格を持ち合わせていたことも推測できます。
和宮の性格や考え
和宮は皇室に生まれた後、降嫁し14代将軍徳川家茂に嫁ぎました。
当時、京都にて婚約者がいた和宮にとって、江戸に行かねばならない縁談は苦しいものだったことでしょう。
しかし、皇室のため、民衆のために自ら意思を抑えて江戸に出向いた、という悲劇的な背景を持っています。
和宮はその思いを和歌にしています。
惜しまじな 君と民のためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも
この和歌をみる限り、和宮は江戸に行くことは相当嫌だったことがとてもわかります。
ただ、その後の徳川家茂との関係は大変良好だったようで、幸せな夫婦となりました。
そのことがわかる和歌を和宮は徳川家茂がなくなった際に詠んでいます。
空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ
どんなに素晴らしい衣も、あなたがいなければ虚しいだけ。と和宮がいかに家茂を慕っていたかがわかる和歌です。
なお、和宮は大奥に入ったときも、京都風の振る舞いが他者から受け入れられず苦労したようです。
郷に入っては郷に従え、とはよく言ったものですが、このときの和宮は反対の行動をとります。
なんと、気にせずに振る舞いを変えなかったそうなのです。
もちろんそのままずっと合わせられないのは困る、という幕府側の意向で、徐々に改善されてはいったようです。
これらの出来事から和宮は、意志の強い女性であったことが読み解けます。
状況が目まぐるしく変わっていくなかでも他人のことを考慮することができ、慣れない環境でも自らの姿勢は崩さない、という軸のぶれない人物であったこともわかりますね。
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まとめ:徳川慶喜と篤姫や和宮は合わなかった!
今回は徳川慶喜と篤姫や和宮の関係性や、各人の性格などをご紹介してきました。
ここまででわかっていただけた通り、慶喜と篤姫や和宮の関係が良いものだったとは言えないでしょう。
前衛的で秀でた積極性をもつ女性である篤姫や和宮は、女性を尊重することができなかった慶喜に対し不満が募っていたであろうことが予想できます。
近年では、「徳川慶喜は優れたリーダーだった。」という見方が広まりつつありますが、女性との信頼関係を構築することにおいては、参考にしない方が賢明かもしれません。
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