幕末に明治維新の指導者として活躍した思想家・教育者である「吉田松陰」。
松陰が叔父から引継ぎ開いた「松下村塾」は高杉晋作や伊藤博文など、明治維新の中核となる人物を輩出しました。
勤勉で優秀な教育者である反面、討幕に燃える尊王攘夷派でもありました。
尊王攘夷派の代表的人物であった松陰は、安政の大獄で捕らえられ、29才という若さで死刑に処されます。
彼が残した辞世の句と、数々の名言をご紹介します。
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目次
吉田松陰の辞世の句や最後の言葉の意味
吉田松陰は、老中の暗殺を企てたとして投獄され、斬首刑に処されます。
それに際し残した3つの辞世の句をご紹介します。
塾生や同志に向けた辞世の句
身はたとひ 武蔵の野辺に
朽ちぬとも
留め置かまし 大和魂
意訳(意味)
私の身が、たとえ武蔵国の野に
朽ち果てても
私の大和魂はここにとどめ置き、この世で生き続ける。
吉田松陰が指導した松下村塾の門下生には、塾生名簿は存在しないものの久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎らがいました。
このなかで久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿ら道半ばで打たれた者も多いが、伊藤博文、山県有朋らのように生き残り明治維新で活躍した門下生もいました。
道半ばで打たれた者、生き残って明治維新へと時代を進め、日本の近代化に貢献したものたちに吉田松陰の教えが伝わり、吉田松陰の意志がしっかりと受け継がれ、生き残っていました。
このように吉田松陰は亡くなる直前でも、たとえ自分がいなくても意志は無くならないことがわかっていたことがわかる辞世の句です。
両親へ向けた辞世の句
親思ふ 心にまさる 親心
けふのおとずれ 何ときくらん
意訳(意味)
子が親を思う以上に、親は子を大切に思うものである。
私のこのような状況をきいて、どんな思いだろうか。
吉田松陰には父・百合之助と母・滝がいました。
また、吉田松陰には二人の兄がいましたが、吉田松陰が江戸で牢獄に入れらていたとき二人とも病にかかり両親が看病をしていました。
両親は兄の看病に疲れ、看病の合間に揃って仮眠をとっていたそうです。
その仮眠をとっているときに二人は吉田松陰の夢を観たそうです。
母の滝は『松蔭がとても元気な姿で夢に出てきて、声をかけるとすっと消えてしまった』とのこと。
一方、父の百合之助は『私も松蔭の夢を見ていた。それは首を切り落とされる夢。ただ、首を切り落とされているのにとても心地よく、こんなにも気持ちのいいことだったのかと感心していた。』とのことでした。
二人が同時に夢をみて、話していたのちの20日後、江戸から松蔭が処刑されたとのこ連絡が届きます。
報告をうけ悲しむも、二人は夢のことを思い出し、計算をしたそうです。
そうすると二人は夢を観ていた時間と松蔭が処刑された時間は同時刻だったと言うのです。
このように吉田松陰も両親も最後の別れを夢でするほどの良い関係だったのでしょう。
自身の信念を貫く辞世の句
吾今 国の為に死す
死して 君親に負かず
悠悠たり 天地の事
鑑照 明神に在り
意訳(意味)
私は今、国のために命を捧げる。
これは決して、主君や両親たちに対する忠孝に背くことではない。
遠く広がる天地の間にあるこの国の行く末を憂えるが、
神よ御照覧あれ。
幕府は松陰に「梅田雲浜」(幕末の武士であり儒学者)とどんな会話をしたのか、調査するために取り調べを行いました。
松陰はいくらでも嘘をつけたものの、なぜか老中である「間部詮勝」を暗殺しようと企てたことを自白し、斬首刑を宣告されます。
教育者であり武士である松陰は、命欲しさにうそをつくことなどはせず、正直に意見を語り、自分の信念を貫ぬこうと考えたのかもしれません。
吉田松陰の名言の意味を解説
松陰は、さすが教育者、数々の名言を残しています。
現代に生きる私たちの心にも響く名言をご紹介し、意味を解説します。
夢を持つことからすべてが始まる
夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし故に、夢なき者に成功なし。
成功するためには行動することが必要であり、行動には計画が必要です。
計画するためには、理想や夢が無ければ、どうなりたいか、どうしていくべきかが定められませんよね。
よって、夢を持つことが成功の出発点だということです。
忙しい毎日で、ふと気づけば自分の生きる目的や理想など忘れがちですが、いくつになっても夢や目標を持って、生き生きと充実した人生を送りたいですね。
何事も積み重ねが大事
一日一字を記さば一年にして三百六十字を得、一夜一時を怠らば、百歳の間三万六千時を失う
1日に1字でも学べば、1年たてば360字を習得でき、一方で1日1時間でも無駄に過ごせば100歳になったときに36,000時間を失うことになるということです。
仕事や勉強に忙しい毎日でも、少しの時間を見つけて何かを学び続けることで、のちに自分の成長となって返ってくることでしょう。
吉田松陰の逸話・エピソード
勤勉で優しく、立派な指導者であるイメージを持たれる松陰ですが、過激な一面や大の甘党だったという意外な一面も持ち合わせていたようです。
そんなエピソードをご紹介します。
黒船に乗って留学?
松陰が23才のとき、ペリーが黒船に乗って日本にやってきます。
鎖国真っ只中の日本でしたので、海外留学なんてもってのほかでした。
しかし、好奇心が押さえられなかった松陰は弟子を誘い、黒船に乗り込んで留学させてもらおうと計画します。
なんとか侵入に成功した松陰たちは、乗組員にアメリカに留学させてくれと頼みますが、断られて追い出されてしまいます。
計画に失敗した松陰たちは奉行所に出頭し、海外密航を試みた罪で牢屋に入れられることとなりました。
かなり過激な行動ですが、密航の背景には、自分たちの学識の乏しさから、西洋に学び、知識を得てもっと日本を強くしたいという思いがありました。
当時の様子を見たペリーは、国の法律を破れば命はないかもしれないとわかりつつ、行動に出た勇気と日本を想う心を称賛していました。
大の甘党だった
松陰は甘いものが好きで、特に大福が大好きだったようです。
当時松陰は遊学中で勉強に使う用具を買うために質素倹約に努めていました。
「費用録」という家計簿のようなものをこまめにつけて、かかる費用を記録していました。
食事も米と味噌と梅干しだけというかなり質素な食生活をしていたにも関わらず、費用録には何度も「大福」の文字が登場します。
多いときは1月に6回も大福を買ってしまっていたとか。
当時1個大体4文(60~70円)と安く手に入るお菓子ではあったものの、大福を買うことがやめられない松陰は、「誘惑に負けて買ってしまった。自分で自分にがっかりする。」と記録しています。
偉大な教育者である松陰にもこんな一面があったと思うと、なんだか親近感が湧いてきますね。
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まとめ
幕末に多くの偉人を輩出し、自身の信念に従ってまっすぐ突き進んだ吉田松陰。
誰よりも日本のことを想い、日本の近代化に大きく貢献した英雄と言っても過言ではないでしょう。
彼は29才という若さで安政の大獄の犠牲者となりましたが、私たちに数々の名言を残していきました。
松陰の言葉たちは、現代に生きる私たちに忘れかけていた大和魂を思い出させてくれます。
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