NHK大河ドラマ『青天を衝け』で吉沢亮さんが演じる主人公、渋沢栄一。
500社もの設立に関わり、600近くもの教育機関、病院、各種団体の運営に携わりました。
新しい元号「令和」が発表された2019年4月、来たる2024年より一新される新一万円札の顔に、渋沢栄一が採用されることが発表されました。
新一万円札の他にも、新五千円札が教育者である津田梅子、新千円札は医学者の北里柴三郎になることが決まっています。
今回は、渋沢栄一や津田梅子、北里柴三郎がお札のデザインに選ばれた理由をご紹介していきたいと思います。
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目次
渋沢栄一がお札のデザインに選ばれた理由
資本主義経済の社会の中で、新札の顔に選ばれるのはそれ相応の理由が必要です。
渋沢栄一が選ばれた理由としてまず挙げられるのが、先述したように、500社もの設立に関わり、600近くもの教育機関、病院、各種団体の運営に携わり、「近代日本経済の父」と呼ばれたことが、大きな理由として挙げられるでしょう。
日本の経済システムという枠組みの中で生きている以上、渋沢栄一が設立した企業や団体に関係のない人はいないと思います。
また、1873年に第一国立銀行(現・みずほ銀行)を開業して総監役に就任したり、銀行と商人が出資して会社を作る(今でいう株式会社)制度を生み出したことも、大きな理由の一つと言えるでしょう。
1963年に発行された当時の千円札の顔として、渋沢栄一が候補に選ばれたこともありますが、その時は伊藤博文が採用されました。
韓国でもお札としてデザインされていた!
ちなみに、渋沢栄一はお隣の韓国でもお札のデザインとして選ばれたことがあるそうです。
韓国併合前の1902年、第一銀行(旧・第一国立銀行)の頭取を務めていた渋沢栄一は、当時の朝鮮半島を統治していた大韓帝国に支店を置いていました。
当時、日本の紙幣は朝鮮半島でも流通していましたが、1894年の日清戦争後の三国干渉などで貨幣制度の改変が行われ、朝鮮半島における日本の貨幣の流通量は大幅に減りました。
こうした中、第一銀行は大韓帝国の許可なしに渋沢栄一の肖像画が描かれた「無記名式一覧払い約束手形」を発行します。
これは実質的な紙幣として朝鮮半島で流通し、1905年に大韓帝国で正式な紙幣として承認されるようになりました。
このように、近代韓国史の中で初めて発行された紙幣に描かれていたのが、日本人だったのです。
渋沢栄一が紙幣に描かれていたことに対しては賛否両論ありますが、渋沢栄一の世界的な影響力を見て取ることができます。
津田梅子がお札のデザインに選ばれた理由
津田梅子は女子英学塾(現・津田塾大学)を設立した人物として有名ですが、新五千円札の顔に選ばれた理由を探るのに、現行の樋口一葉がなぜ選ばれたかを探る必要があります。
もともと一つ前の旧五千円札に描かれていたのは、著書『武士道』でも有名な新渡戸稲造でしたが、新渡戸稲造から樋口一葉に切り替わった理由として、財務省のホームページには「女性の社会進出の進展に配意し、また、学校の教科書にも登場するなど、知名度の高い文化人の女性の中から採用した」とあります。
今回もその流れを踏襲するのなら、いわんや女性の社会進出が進む中で、優劣を付けるわけではありませんが、新一万円札の顔を渋沢栄一にすることが決まり、自然とパズルのように新五千円札の顔に津田梅子が選ばれた(ちなみに前回の2004年の新札切り替えの時にも、津田梅子は候補として挙がっていました)と推測することもできるかもしれません。
また、精密な人物写真や絵画が残っていたことも、大きなポイントとなったようです。
北里柴三郎がお札のデザインに選ばれた理由
一方、新千円札の顔には北里柴三郎が選ばれました。
渋沢栄一が「近代日本経済の父」と呼ばれるように、北里柴三郎は「近代日本医学の父」と呼ばれ、日本の医学の発展に大きく貢献しました。
細菌学者としてペスト菌を発見し、破傷風の治療法を開発するなど、現代にもつながる感染症医学を大きく発展させた人物でもあります。
新千円札の顔として北里柴三郎が発表されたのは2019年でコロナ禍になる前のお話でしたが、奇しくも昨今のコロナ禍で感染症対策が叫ばれる中、細菌学者が新千円札の顔として選ばれることになったのは、まるで神様の取り計らいかのように、偶然としては出来すぎているような気もしますね。
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まとめ
渋沢栄一の著書『論語と算盤』というタイトルそのものが表しているように、「論語(道徳・教え)」だけに偏り机上の空論で頭でっかちになるのではなく、かと言って「算盤(ビジネス・お金儲け)」だけに走るのではなく、道徳と経済を両立させていく。
お金を儲けることは決して卑しいことではなく、堂々と商いを行ない、正しく儲けて、国を大きく豊かにしていく。
まさに、昨今言われている「SDGs(持続可能な開発目標)」を百年も前から先取りして体現していた渋沢栄一の姿勢には、ただただ驚かされるばかりです。
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