江戸時代後期の老中首座であり、下総国佐倉藩5代藩主を務めた「堀田正睦」。
正睦は2度老中になり、2度失脚して政界から去ったという変わった経歴の持ち主です。
一体何をした人なのかよくわからない、という方も多いかもしれませんが、激動の幕末に活躍した人物です。
どんな人物で、どのような影響を日本に与えたのかについてわかりやすく解説します。
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目次
堀田正睦はどんな人
出典:Wikipedia
主な経歴:下総国佐倉藩5代藩主/江戸幕府の老中首座
実父 :堀田正時
養父 :堀田正愛
妻 :榊原節子
実績 :日米修好通商条約の交渉/佐倉藩藩政改革
蘭学に精通
堀田正睦が藩主を務めた佐倉藩の藩政改革の一つに、学制の推進が挙げられます。
中でも特に正睦は蘭学(オランダを通じて日本に流入した学問)に傾倒し、「蘭癖」や「西洋堀田」などとあだ名をつけられたことも。
正睦のおかげで、佐倉は蘭学の聖地となりました。
積極的な開国推進派
西洋の文化に傾倒していた正睦は当然のことながら開国推進派でした。
攘夷や鎖国は時代錯誤であり、一刻も早く諸外国と通商すべきとの考えを持っていました。
1858年、アメリカ総領事のハリスから、日米修好通商条約の調印を迫られることになります。
本当は条約締結を受け入れたかった正睦ですが、諸藩の猛反対に合うとともに、攘夷派だった孝明天皇に許しを得ることが出来ず、引き下がらざるを得ませんでした。
堀田正睦は何をした人
1855年の安政の大地震後に阿部正弘の後任として、堀田正睦は老中首座という実質幕府のナンバー2の座を手にします。
当然開国派だった正睦は、開国に向けて幕政の舵を切りはじめるのです。
功績や業績の簡単まとめ
日米修好通商条約の締結を目指して奔走
ハリスとの交渉を担っていた堀田正睦ですが、一刻も早く条約を締結したいと思う心とは裏腹に交渉は難航します。
アメリカの利益を最優先し、不平等な条件を叩きつけてくるハリスに加え、徳川斉昭ら攘夷派の猛反対に合ったことでなかなか話が進みませんでした。
攘夷派を黙らせるには、天皇の許しを得ることだと考えた正睦は、6万両もの資金を用意して京都に上洛します。
当時、財政難に苦しんでした朝廷に、資金支援をする代わりに勅許を得ようという作戦でした。
しかし、攘夷派だった孝明天皇はお金を積まれたところで条約を認めないという姿勢。
それに加えて、条約締結に反対した攘夷派が抗議事件を起こしたこともあり、後に引くしかなくなった正睦。
手ぶらで江戸に戻ることとなってしまいました。
蘭学に傾倒し、力を注いだ
日米修好通商条約の締結が叶わなかった正睦ですが、藩主としては様々な業績を残しています。
彼が行った藩政改革をご紹介します。
・農地、農村の復興改革(篤農家や豪農層を指導者とし、農地改革を推進)
・学制改革を実施
・医学所を整備し、佐藤泰然を呼び寄せ蘭方医学を採用
出典:佐倉市観光協会サイト(佐倉順天堂)
学制改革については蘭学に力を入れており、かなりの成果を出しています。
長崎で蘭学を学んでいた佐藤泰然を呼び寄せ、泰然が開いた私塾「佐倉順天堂」は関東随一の蘭学の聖地となります。
当時の蘭学と言えば「西の長崎・東の佐倉」と言われるほどだったそうです。
蘭癖と呼ばれるほど蘭学に傾倒し、それを極めて実績をだした正睦はまさに「好きこそものの上手なれ」を体現していますね。
ちなみに、「佐倉順天堂」は現在の順天堂大学の前身となる学校です。
堀田正睦の評価
正睦は、2度も老中を務め、諸外国との交渉に務めて開国を目指した人物です。
その最期は井伊直弼によって失脚させられるという、悲しい運命をたどっています。
正睦は一体どのように評価されていたのでしょうか。
阿部正弘に操られていた
一度失脚するも、阿部正弘の推薦により老中に復帰した正睦ですが、実際の政権は正弘が握っていたと言われています。
正弘と同じく開国派であった正睦は扱いやすく、老中首座として置くことで正弘に集中していた批判をかわす盾として都合がよかったのです。
実質的に実権を握ったのは正弘の死後と考えられます。
失脚後に蟄居
井伊直弼とは継嗣問題で対立していた正睦。
直弼が大老に就任するとともに老中を罷免されてしまいます。
その後桜田門外の変が起こり、直弼が暗殺されると、正睦は朝廷と幕府の両方から蟄居を命じられ政治生命を断たれます。
そして1864年に佐倉城内にて生涯を終えました。
正睦は幕末の難局を乗り越えようと努力した人物ではありましたが、上手く立ち回ることができるタイプでなかったため、あまり評価はされていなかったようです。
しかし最近では、正睦がアメリカと交渉する奮闘ぶりが見直され、評価する声も出てきています。
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まとめ
人に利用されたり、あまり報われない生涯だった堀田正睦。
しかし、正睦が行った藩政改革はめざましい成果をもたらしました。
実績が注目を浴びることはありませんでしたが、実際のところは名君だったと言って良いのではないでしょうか。
しかし政治家としては、もう少し上手く立ち回り、積極的に自分の色を出すべきだったように思えます。
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