織田信長の辞世の句や最後の言葉は?残した名言の意味についても

織田信長(おだ のぶなが)と言えば、戦国時代最大のヒーロー。

魔王として語られることもあれば、性格の優しい部分や律儀な部分が語られることもあれば、気まぐれな部分が語られることもあります。

実力と強運で、天下統一に邁進していた信長でしたが、1582年6月21日に滞在していた京都の本能寺で、1万3千人の手勢を率いる家臣・明智光秀の襲撃を受け自決します。

47歳でした。

今回は、信長の辞世の句や最後の言葉、また信長らしい名言をご紹介させていただきたいと思います。

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織田信長の辞世の句

辞世の句

人間五十年 天下のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり、一度生を得て 滅せぬものの あるべきか、これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

 

句の意味とは?

人の一生とは、おおざっぱに言ってしまえば、50歳かそこらだ。

天上の世界の巨大な時間の流れに比べたら、夢や幻のように儚い(はかない)ものであり、生を受けたものであれば、いつかは死滅するものだ。

 

この句を作ったオリジナルは誰?

信長は、「能」や「芸能」の稽古をしていたことが広く知られていますが、辞世の句となったこの節は、「幸若舞」(こうわかまい)の「敦盛」(あつもり)の一説です。

平家物語の中で語られている話のひとつで、元々は平家に仕えていた熊谷 直実(くまがい なおざね)があることを契機に源頼朝に仕えるようになり、一ノ谷の合戦で心ならずも平敦盛(たいらのあつもり)を討つことになります。

その後、虚しさや無常を感じ出家したことを歌ったものです。

 

この辞世の句の前の部分は?

この信長の辞世の句となった節の前の部分が次の台詞です。

思へばこの世は常の住み家にあらず、草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし、金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる、南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり

 

織田信長の自決

この辞世の句を詠みながら舞った信長は、燃え盛る本能寺のさらに奥に入っていき、自決したと言われています。

 

本能寺で信長が語ったとされる他の言葉

是非もなし

本能寺に攻め入ってきた相手が、桔梗の旗の明智光秀だと知って信長は、“是非もなし”と言ったと言われています。

「是非もなし」は、普通に解釈すると、「どうしようもないことで仕方がないからあきらめよう。」という意味になるため、状況を考えると「是非に及ばず」と言ったのではないかという説もあります。

「是非に及ばず」であれば、「いいも悪いもない、戦うしかない」という意味になるようです。

 

本能寺の変 431年目の真実(川出文庫)を出版した光秀の子孫で作家でもある明智 憲三郎さんなどの解釈によると、信長はいつか邪魔になる徳川家康の暗殺を計画しており、それを知った光秀が義理を欠く行為だと激怒し、信長を討つことを決めたとしています。

「“是非もなし”とは、光秀の行動にも理があり、光秀に攻められるのも自分の責任である。」という意味に解釈しています。

 

明智光秀は女を殺すような人間ではないから逃げろ

本能寺には、女性も滞在していたと考えられています。

滞在者の身の回りの世話や家事のためだったのかもしれません。

信長は、自身が追い込まれても、周りの人間に気を遣える人間であり、同時に光秀の性格をよく知っていたのだと考えられます。

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織田信長らしい名言とその意味

名言

戦に勝るかどうかと兵力は必ずしも比例しない。比例するかそうでないかは戦術、つまり自身にかかっているのだ

 

明言の意味

信長の戦の中でも、最も有名なもののひとつが「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)です。

上洛を目指して、総勢2万を超える大軍を率いて1560年5月12日に駿府を出立し、東海道を西に目指したのが今川義元(いまがわよしもと)でした。

 

当然、 最初に衝突するのは、尾張の織田信長です。

信長が用意できる軍勢は、最大でも5000人。

戦う前から、誰の目にも勝負は明らかでした。

しかし、信長はいっこうに動こうとはしません。

信長が動いたのは、義元が出発してから7日後でした。

目的地は桶狭間(現在の名古屋市緑区あるいは豊明市あたり)。

信長の先鋒隊に勝利した今川義元が桶狭間で休憩を取っているという情報が入ったためです。

義元軍は、ここで、地元の農民からねぎらいの酒や食べ物の献上されたという記録がありますが、義元を足止めにするために信長が仕組んだ演出だった可能性は極めて高いです。

豪雨の中、信長軍は桶狭間を迂回し、敵の背後から一気に奇襲攻撃をかけ、義元の本陣を崩し、義元を倒しました。

奇襲から義元を倒すまでにかかった時間はおよそ2時間ほどだったと伝える記録も見つかっています。

 

さらに最近の研究や「信長公記」によれば、この戦いは背後からの奇襲攻撃ではなく、信長は正面から義元軍に立ち向かったとする説も伝えられています。

「兵力の少ない信長がそんなことするだろうか?」という疑問をお持ちの方も少なくないと思いますが、それを可能にしたのが信長の戦法でした。

信長は、標準の槍よりもはるかに長い槍を持つ槍隊を前方に配置します。

これにより、義元軍は中へ入りこむことが難しく、さらに信長はこの槍隊の後ろに鉄砲隊を配置したのです。

たじろぐ義元軍を鉄砲により倒していったというのが現在、最も多く語られる「桶狭間の戦い」の光景です。

 

勝因のひとつは、やはり、信長が義元の出陣の日から、常に、義元がどこにいるのかを把握していた点ですね。

情報をきちんとつかむ能力に信長は長けていたのです。

また、義元出発後7日目で、戦いを終えたばかりで疲れていたところに攻め込むあたりも偶然ではなく、信長の計算だったのではないでしょうか?

もちろん、軍の配置が難しい桶狭間を戦いの場所に選んだことも偶然ではなかったでしょう。

信長は名言通り、兵力の差を乗り越えて、大軍を倒したのです。

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まとめ

信長の最後の言葉, 辞世の句は、“人間五十年 天下のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり・・・” を含む「幸若舞」(こうわかまい)の「敦盛」(あつもり)の一説だったと言われています。

また、光秀の謀反を知った信長は、「是非もなし」と言いましたが、その真意については、今も議論になっています。

信長はまた、“戦に勝るかどうかと兵力は必ずしも比例しない。比例するかそうでないかは戦術、つまり自身にかかっているのだ。”という名言を残していますが、「桶狭間の戦い」では、数で勝る今川義元を破った名言の体現者なのです。

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