幕末の大名であり、常陸水戸藩の藩主として活躍した徳川斉昭。
最後の将軍である徳川慶喜の父であり、日本三名園のひとつである「偕楽園」を水戸に作った人物です。
いまいち何をした人なのか、どんな人物だったのかわからないという方も多いかもしれませんが、斉昭は日本の開国に反対しながら、諸外国の脅威から日本を守ろうと藩政を行った人物です。
そのような彼が実際はどのような人物だったのか、どのような名言を残していったのか、ご紹介します。
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目次
徳川斉昭の辞世の句や最後の言葉の意味
晩年は政界から追放され、幽閉中に亡くなった斉昭。
辞世の句や最後の言葉について調査しましたが、斉昭は突然の死を迎えたためそのようなものは残っていませんでした。
ではいったい斉昭が迎えた最期はどのようなものだったのでしょうか。
永久追放された晩年
斉昭は、開国を推進した井伊直弼と反対に、諸外国の脅威から日本を守るべきだと考え、開国を反対する完全な攘夷派でした。
それに加えて、将軍継嗣問題と日米修好通商条約の調印問題で井伊直弼と対立関係にありました。
ついにある時、斉昭は条約調印に物申すべく無断で江戸城を訪問する「無断登城」を行い、幕府の命令によって1回目の謹慎を命じられます。
しかし農民たちから復帰を望む声が強まり、復権運動の末、藩政に復帰することができました。
復帰した斉昭は、孝明天皇に働きかけ、「戊午の密勅」が水戸藩に下されることとなります。
これは、孝明天皇が幕府を通さずに、水戸藩に幕政改革を直接指示した事件です。
このことを知った井伊直弼は激怒し、斉昭は2回目となる謹慎、「永蟄居」を命じられました。
「栄蟄居」とは一生ずっと外出できず、部屋で謹慎させる刑のことで、現代でいうと「終身刑」に当たります。
事実上政治生命を断たれた斉昭は、藩政に復帰することなく水戸で幽閉生活を送りますが、1860年に急逝。
死因は心筋梗塞と言われており、お月見をしていた際に厠(かわや)へ立ったところで倒れ、そのまま亡くなったそうです。
老体であったことに加え、長年の蟄居で相当なダメージを負っていたと考えられます。
最期まで攘夷を貫いた斉昭ですが、政治生命を断たれ水戸での蟄居とはさぞ無念だったことでしょう。
徳川斉昭の名言や意味を解説
斉昭は、“学問は一生行うもの”という信念のもと、弘道館という藩校を作ったり、短歌をたしなんだりしていました。
そんな彼が残した名言を2つご紹介し、意味も解説していきます。
恥ずかしがらず、教えを請うべし
「何事にても、我より先なる者あらば、聴くことを恥じず」
自分よりも知識があり、その物事に精通している人に教を請うことは何も恥ずべきことではないと語っています。
聞くは一瞬の恥、聞かぬは一生の恥と言いますよね。
自分の身分に関係なく、何かを学ぶ時や自分の成長のためには、わからないことがあれば教わろうという姿勢が大事だということですね。
日本古来の道徳を重んじよ
「行く末も 踏みなたかへそ あきつ島 大和の道そ 要なりける」
“日本古来の道徳は永久に変わることはないので、迷い惑わされることなく、信念を持って道を踏み外してはいけない。”ということを語っています。
斉昭は、道徳は教育の要と考えていたようです。
現代の私たちにも、他人を思いやる心や善悪の判断を正しくする道徳性が大切ですよね。
幕末という激動の時代に生きながら、道徳の重要性を説く斉昭はやはり目の付け所が違いますね。
徳川斉昭の逸話・エピソード
激しい性格から、「烈公」とも呼ばれていた斉昭。
行動力があり、猪突猛進の執政でしたが、実際の素顔はどのようなものだったのでしょうか。
斉昭の人となりがわかるエピソードをご紹介します。
倹約家だった
水戸藩は毎年1万両の支援金を幕府より受けていましたが、斉昭はこれを返上。
一般的に藩主の食事は豪華なものでしたが、それを断って翌日から以前と変わらない食事を出すように指示したそうです。
藩本来の35万石で暮らすことを望んだ斉昭は、家臣たちにも質素倹約を奨励しました。
斉昭が寵愛していた側室が衣装代を欲しいとねだった時には、激しく怒り、それ以降その側室が目通りを許されることは無かったと言います。
度が過ぎた好色
斉昭は女好きで有名で、生涯にもうけた子どもは37人。
跡継ぎの心配がいらなくなってからも、いろんな女性たちに手を出し、子づくりに励んでいたようです。
かつて大奥に「上臈御年寄」(位が高い女中で、生涯貞操を守る決まりがある)の「唐橋」という美しい女性がおりました。
唐橋は大奥を出たあとも決まりを守り、異性関係を持たずに過ごしていましたが、斉昭はそんな彼女にも手をつけていました。
そのうえ、自分の息子の妻である「線姫」にまで手を付け、自害に追いやったのでは?という噂も。
そんな斉昭は大奥の女性に手を出すだけでなく、大奥の改革や倹約を指示していたため、かなり女性たちからは嫌われていたようです。
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まとめ
斉昭は女性からの評価は散々だったものの、行動力とリーダーシップを持ち合わせた人物で男性からの評価は高かったようです。
みんなが楽しめるように「偕楽園」を造設したり、弘道館を開いて教育に力をいれたりと、度が過ぎた女好きではあったものの、それをカバーする藩政を執っていたと言えるでしょう。
身分は関係なく自分が知らないことは教わろうとする姿勢や、学問は一生ものという考え方は、現代の私たちも見習いたいですね。
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