NHK大河ドラマ『青天を衝け』で吉沢亮さんが演じる主人公、渋沢栄一。
大河ドラマの影響で人気を博していますが、500社以上もの会社や教育機関、病院、各種団体の設立や運営に携わりました。
一方、渋沢栄一がパリを訪れる際に見立養子となった渋沢平九郎(尾高平九郎)。
渋沢栄一の跡継ぎということで、激動の幕末から明治時代にかけて渋沢栄一や周りの人たちと深く関わっていくことになりますが、そんな渋沢平九郎は、イケメンで高身長だったとも言われています。
今回は、イケメン幕末志士・渋沢平九郎について掘り下げていきたいと思います。
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目次
渋沢平九郎はイケメンで高身長!
イケメンと言うくらいですから、言葉で説明するよりも、まずは渋沢平九郎の写真を観ていただければと思います。
2018年10月撮影:渋沢史料館にて行なわれた「渋沢平九郎―幕末維新、ニ十歳の決断―」にて。
ご覧の通り、イケメンです(笑)。
10歳で神道無念流を学び始めた尾高(渋沢)平九郎は、19歳で剣術を教える立場を任されるほどの実力の持ち主でした。
また、兄の尾高惇忠によると、渋沢平九郎は温厚で沈勇果毅(ちんゆうかき、落ち着きと決断力があること)な性格で、所作も美しく、色白で背も高く、腕力もあったのだそうです。
渋沢平九郎は17歳~18歳ぐらいには174cmの身長があったようです。
幕末当時としては高身長でした。
上記のパネルからみても身長が高かった事がわかります。
ちなみに養父である渋沢栄一の身長は150cmちょっとだったようです。
また、渋沢平九郎は渋沢栄一の養子になる前は姉の千代が渋沢栄一と結婚すると、渋沢平九郎は渋沢栄一と義兄弟となっています。
渋沢平九郎の愛刀
そんな渋沢平九郎ですが、愛刀として3振が残されていることが確認されています。
・勝村徳勝作の小刀
・月山貞一作の大刀
中でも勝村徳勝作の大小刀は、後述する飯能戦争の時に渋沢平九郎が帯びていたとも言われています。
そのうち小刀は、神機隊の川合鱗三という者に保存され、1893年に渋沢栄一の手元へ大刀とともに戻ったとされています。
また、月山貞一の大刀は、1940年に青森県から渋沢家に送られたそうです。
刀身の表には「摂州浪花住月山雲龍子貞一作之 慶応三卯年八月日」と、裏には「應渋澤平九郎需」の銘文が刻まれています。
渋沢平九郎の自刃の地や墓地
1868年、渋沢平九郎は15代将軍・徳川慶喜の復権に向けて同志たちと彰義隊を結成します。
やがて、頭取達の軋轢により渋沢平九郎は彰義隊を離れて振武軍を結成し、現在の埼玉県飯能市にある能仁寺で本営を構え、新政府軍と戦います(飯能戦争)。
しかし、振武軍は新政府軍に破れ、最終的に渋沢平九郎は、現在の埼玉県入間郡越生町で、22歳という若さで自刃します。
渋沢平九郎が自刃した場所は、越生町の黒山三滝からの道沿いにあり、そこには自刃岩(自刃岩)が置かれています。
当時は渋沢平九郎の名が知れ渡っていなかったため、脱走の勇者として「脱走(だっそ)様」、また越生の町では「お首様」として祀られていました。
しかし、兄の尾高惇忠の調査で渋沢平九郎であることが分かり、尾高惇忠と渋沢栄一は現地で渋沢平九郎を弔い、町の人々に敬意を表したとされています。
なお、渋沢平九郎の墓地の場所は谷中にある渋沢家墓地に埋葬されています。
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まとめ
20歳という若さで彰義隊を飛び出し、振武軍の参謀になるなど、身を徹して徳川家に尽くした渋沢平九郎。
当時と今とでは時代背景は異なりますが、現代の大学生と同じ22歳という若さで自刃する姿勢から、渋沢平九郎の肚(はら)と覚悟が感じられると思います。
見た目だけではなく中身もイケメンだった彼の姿に、私たち現代人も学ぶことがあるのではないでしょうか。
2018年3月撮影。
こちらは飯能戦争の舞台となった能仁寺の向かいにある飯能中央公園にて行なわれた桜祭りの様子です。
渋沢平九郎の時代に思いを馳せながら観る桜は、また格別なものです。
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