江戸幕末に活躍した福井藩士「橋本左内」。
幼いころから神童と呼ばれ、多くの人々から評価されていた彼は、日本の近代化のために奔走しますが、安政の大獄によって26才という若さで斬首刑に処されます。
そんな彼が波乱の生涯で残した言葉と、壮絶な最期について解説するとともに、彼にまつわるエピソードもあわせてご紹介します。
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目次
橋本左内の辞世の句や最後の言葉の意味
橋本左内は、将軍継嗣問題に関わったことについて取り調べを受けます。
その取り調べは江戸北町奉行所にて6回にもわたり、その末に斬首刑を言い渡されました。
あまりに賢かった橋本左内は、井伊直弼の脅威になりかねないと、安政の大獄のどさくさに紛れて殺されることになるのです。
26才という短い生涯を終えることとなった左内は、その胸の内を辞世の句として残しています。
無念を嘆いた辞世の句
平昔(へいせき)を顧思(こし)すれば感滋々(ますます)多し。
天祥(てんしょう)の大節、嘗(かつ)て心折(しんせつ)す。
土室(どしつ)猶(な)ほ吟ず、正気(せいき)の歌。
橋本左内の無念を嘆いた辞世の句を意訳は下記のようになります。
昔のことを思い出すと感慨深いものだ。
かつては文天祥の大節に敬服したが、
自分も同じく牢屋にあって、正気の歌を歌うのだ。
君主である松平春嶽の藩命のもと忠実に動いたことが、結果的に死刑を招いてしまい、左内はさぞ無念だったことでしょう。
左内と親交があった西郷隆盛は、彼の死を非常に悲しみ惜しんだそうです。
「同輩においては、橋本左内にかなわない」と評した西郷隆盛は、自決する際も左内から送られた手紙を携えていたと言います。
橋本左内の名言の意味を解説
幼いころから秀才で神童と呼ばれていた左内は、15才のときに「啓発録」を著しました。
啓発録には、現代に生きる私たちの心にも響く名言が数多く記されています。
今回はその中から3つご紹介します。
幼稚な心をすてるべし
自分のやらなければいけないことをやらずになまけたり、親に甘えて頼り続ける心を持ったままでは一人前にはなれないと語っています。
自分自身を律して勉学や仕事に励み、幼稚な心を捨てることは、自立した人間になるために現代の私たちにも大事なことかもしれません。
急流中底の柱となるべし
この言葉は、左内が少年時代に書箱の蓋に書いたもので、中国の古典「書経」にある語句から着想しています。
どんな状況に陥っても、まどわされることなく自分の志を持つことは、現代に生きる私たちが生き抜くうえで必要なことと言えるでしょう。
誰しもが何かの素質を持っている
左内は、世の中に不必要な人はいない、何らかの役割を果たすことができると語っています。
仕事や勉強など、何かに上手くいかず悩む方も多いかと思います。
しかしそれは、自分に適していない物事、やり方をしているからかもしれません。
自分が役に立てることが必ずあると信じて、いろいろなことに挑戦するうちに自分の新たな才能に気づくことができるかもしれません。
橋本左内の逸話・エピソード
幼いころから天才的なエピソードを残す左内は、完璧な人間のように思えますが、実際の人となりはどうだったのでしょうか。
左内の素顔に迫る、逸話をご紹介します。
斜め上の切り返しで周囲をおどろかす。
左内が12才の時、いじめっ子が怪我をしてしまいます。
それをみた他のいじめっ子たちは「お前は医者の子なんだから、この傷を治してみせろ」と左内にせまります。
それに対して左内は、熱した火箸を持ってきて、いじめっ子の傷口に当てようとしました。
周囲の人たちはあわてて止めに入りますが、なぜそんなことをしたのか問われると「傷口の治療方法は知らないが、やけどの治療ならできるので」と答えて周囲を驚かせました。
ものまねが得意だった
左内は他人の物まねが得意で、退屈になると友人の西郷隆盛や、交流のあった福井藩の中根雪江のものまねをして周囲を笑わせていたそうです。
また、猫のものまねも得意で、子どものころはよくニャーニャーとまねをしていたそうです。
完璧で才能あふれる左内ですが、意外とお茶目で人間味のある素顔がさらに魅力的ですね。
こういう人となりが、周りから親しまれたのではないでしょうか。
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まとめ
26才という若さでの死はあまりにも早すぎました。
橋本左内がもし安政の大獄で死刑にならなければ、幕末の日本にもっと大きな影響を与えることとなったと思います。
しかし左内は、短い生涯の中で私たちにさまざまなメッセージを残していってくれました。
橋本左内の思想や信念は、現代の私たちが生きていくうえでの助けとなってくれるでしょう。
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