徳川慶喜は江戸幕府の15代征夷大将軍であり、日本で最後の将軍として知られています。
一方徳信院は徳川慶壽の正室であり、徳川慶喜の養祖母。
慶喜の厚い信頼を得ていた女性です。
一体、慶喜と徳信院はどのような関係だったのでしょうか。
また、徳信院の手腕はいかほどだったのでしょうか。
エピソードを交えつつ、わかりやすく解説していきます。
目次
養祖母の徳信院と徳川慶喜の関係
出典:Wikipedia/左:徳信院/右:徳川慶喜
慶喜と徳信院の出会い
徳信院は伏見宮19代・貞敬親王の王女として生まれました。
天保12年(1841年)、わずか12歳で徳川慶壽と結婚しますが、5年ほどで夫である慶壽は天然痘にかかって死去してしまいます。
徳信院は17歳という若さで未亡人になり、跡継ぎがいなかったため、他家から末期養子(当主が死去した後に養子にすると届け出し、家を存続する仕組み)を迎えることになりました。
しかし、その養子もすぐに死去してしまったため、次いで養子を迎えることになったのが慶喜だったのです。
このとき慶喜は11才。18才だった徳信院は慶喜を弟のようにかわいがり、二人はとても仲が良かったそうです。
恋仲を疑われた2人
慶喜は7才年上の徳信院を養祖母というよりお姉さんのように慕っており、たびたび徳信院の部屋を訪ねて、一緒に食事をとったり、茶道や謡(うたい)を教わったりしていました。
このような2人の関係は長い間続き、慶喜が「美賀君」と結婚した後も変わりませんでした。
2人の関係は周囲の人間から見てもかなり親密だったようで、松平慶永は2人が恋仲なのでは?という疑いに対して「あり得ない話ではない」と話していたそうです。
そんな2人の関係を目の当たりにして、正室である美賀君は嫉妬に狂い、慶喜の謡の稽古の邪魔をしてわめき散らしたり、自殺未遂を図るなどの事態に発展してしまいました。
せっかく嫁いできたのに、自分以外の女性とばかり親しくされるのも悲しいものですが、周囲からも関係を怪しまれていると思うと、正室である美賀君の立場がありませんね。
しかも周囲の一部からは、「徳信院のほうが美人だから、間違いが起こってしまうのもむりはなのでは・・・」などと言われる始末。
自殺未遂までしてしまう過激さはうなずけませんが、プライドを傷つけられ、嫉妬に狂う美賀君はかなり気の毒に思えます。
徳信院の別名
徳信院という名前で一般的に知られる彼女には別名がありました。
今回は別名についてと名前に関するエピソードをご紹介します。
いくつか別名があった?
徳信院は、貞敬親王の第16王女として生まれました。
そのため名前を「直子女王」といい幼称は「東明宮」でした。
徳信院は伏見宮家のお姫様だったのですね。
その後、天保12年に一橋慶壽と結婚し、「一橋直子」となりました。
しかし結婚生活は長く続かず、慶壽が天然痘で病没すると、直子は剃髪して「徳信院」と号しました。
現代に生きる私たちからすると、こんなにも名前がころころ変わることはないので、何故だろう?と不思議に思う方も多いかもしれません。
現代では改名するには大変な手続きが必要ですし、かなりハードルが高いことです。
しかし昔は所属する自分のステージや地位が変われば、名前も変わるというのが一般的だったようです。
徳信院の女当主としての能力
一橋屋敷跡:http://www.japanserve.com/bakumatsu/spt-edo-hitotsubashi.html
当主が不在の家を守る
井伊直弼が一橋家や尊王攘夷派への弾圧を始めた頃。
慶喜は安政の大獄で不時登城の罪によって隠居謹慎が命じられます。
それによって、一橋家は当主不在の状況に陥りますが、その間の家を守ったのは徳信院でした。
一橋家には美賀君という正室がいながらも、実際中身を掌握していたのは徳信院だったようです。
こうして事実上の当主となった徳信院は、尾張藩から新しい当主である茂栄が養子入りする際にも打診がありました。
このことから、周囲からも当主として認められていたことがわかります。
ちなみに、慶喜が江戸を離れた後、一橋家に残された徳信院と美賀君は自然と関係が修復していったようです。
もともと徳信院は美賀君に対して悪い感情は持っていなかったようですし、争いの原因になる慶喜が居なくなったことで2人の溝も埋まっていったのではないでしょうか。
まとめ
徳川慶喜が幼いころから、影で支え続けた徳信院。
人知れず苦労したことも多かったのではないでしょうか。
幼くして一橋家に養子として入った慶喜にとっては、徳信院の存在は大きかったと思われます。
実際のところ恋仲だったのかは2人しかわからないことですが、頼れるお姉さんとして慕っていたことは確かですし、多少の好意は抱いていたのではないかと考えられます。
また、徳信院は男性中心の江戸時代で活躍した数少ない女性の一人です。
当主不在の家を切り盛りして守り抜いた彼女は、相当な器の持ち主であると言えるでしょう。
コメントを残す