倒幕と明治維新に大きな影響を与えた西郷隆盛。
薩摩藩の中心的な人物で、薩長同盟を結び、戊辰戦争では無血開城(戦闘を行わずに城を明け渡させる)を成し遂げました。
その後西南戦争で自決した隆盛ですが、その最期にはどんな言葉を残していったのでしょうか。
また、名言やエピソードもあわせて紹介していきます。
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目次
西郷隆盛の辞世の句や最後の言葉の意味
出典:Wikipedia
隆盛には、2つの辞世の句と最後の言葉があります。
1つ目は、安政の大獄の際に入水自殺を図ったときに残したもの。
2つ目は、西南戦争の際に死を覚悟して残したと言われている漢詩。
そして最後に、隆盛が別府晋介に語りかけたとされる最期の言葉をご紹介します。
辞世の句①
ふたつなき 道にこの身を 捨小舟
波たたばとて 風吹かばとて
2つとない命であるが、わが身を捨ててこの小舟に乗るしかないのである。
波がたとうが、風が吹こうがこの小舟で進むしかない。
この句は、安政の大獄の際に僧侶月照とともに入水自殺を図ろうとした隆盛が詠んだ句です。
実際は、月照だけが死に、隆盛は生き残ることになります。
辞世の句②
肥水豊山路己窮
墓田帰去覇図空
半生功罪両般跡
地底何顔対照公
肥後や豊後への道はずでに窮まった。故山に帰り骨を埋めよう。
維新完遂のために覇を唱えたが、今となってはもうむなしい。(ここで戦いをやめよう)
我が半生を振り返ってみると功罪両様の跡が残ってしまった。
泉下で一体どんな顔をして、照国(島津斉彬)公にお会いすることだろうか。
こちらの漢詩は隆盛が自決した1877年の9月24日の日記に記されていたものです。
自身の意志に反して、諦めなければいけない状況に陥った隆盛は、故郷に戻って骨を埋める覚悟をしながらも悔しさややるせなさを感じていたことでしょう。
最期の言葉
晋どん、もうここらでよか
西南戦争の白山の戦いにて、政府軍に四方を囲まれ、被弾していた隆盛が別府晋介に言った最期の言葉とされています。
襟を正して正座した隆盛は、別府晋介に介錯を頼んで自決しました。
西郷隆盛の名言の意味
隆盛はかなりの熱血でまわりと衝突することも多く、敵を作りやすかったと言われていますが、自分の信念に従って行動する芯のある人物でした。
「敬天愛人」という座右の銘を人生の指針としていたという、隆盛がのこした名言を3つご紹介いたします。
出典:Wikipedia
生き方について説く名言
世のすべての人からけなされても落ち込まず
すべての人から褒められてもうぬぼれるな
私たち人間は、良くも悪くも感情に動かされるものです。
上手くいかずまわりから批判を浴びても、まわりの意見にとらわれず自分の信じた道を進む。
まわりからもてはやされても驕らず、着実に前に進んでいく。
そんな隆盛の力強いメッセージを感じます。
リーダーとしての心構えを説く名言
万人の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし驕者を戒め
倹約を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、
下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行われ難し
国民の上に立ち、政務を行う役人たちの姿がどうあるべきかを説いています。
品行方正に、驕らず、無駄遣いをせず、誠心誠意職務に励むこと。
そして国民達がその仕事ぶりをみて、気の毒に思うほど出なければいけないということです。
しかしこのことは、現代社会にも通ずる部分多いです。
職場や地域で、人の上に立つリーダーの本来あるべき姿なのではないでしょうか。
道理を説く名言
大きなことでも、小さなことでも
道理にかなった道を踏み、真心を尽くし
決して策略を用いてはならない
何を行うにしても、正々堂々と誠心誠意尽くすべきであると説いています。
どんなことも信頼関係が重要ですよね。
家族や友人、ビジネスパートナーに対しても、策略をたてるようなことはせず、信頼してくれる人を大事にしていきたいものです。
西郷隆盛の逸話・エピソード
写真が嫌いで肖像画は本人じゃない?
西郷南洲(床次正精画):Wikipedia参照
実は隆盛は写真が嫌いで、1枚も写真は見つかっていません。
肖像画と銅像は残っていますが、実際の顔は違った可能性が高いと言われています。
隆盛とされている肖像画はどこからきたかというと、顔の上半分は弟の西郷従道、下半分はいとこの大山巌をモデルにしています。
上野公園に西郷隆盛像が建てられ、それを見た妻の糸子は「うちの人はこんな人じゃなかった」と語ったというエピソードもあるので、実際の隆盛の顔は私たちの想像するものとは大きく異なるかもしれません。
愛犬家だった
上野公園 西郷隆盛像:Wikipedia参照
隆盛を思い浮かべるとき、大きな身体に犬を連れた姿を想像する方も多いのではないでしょうか。
隆盛はかなりの愛犬家で、犬を多頭飼いしていました。
それも20匹近くの犬を飼っていたいたというから驚きです。
そのなかでもお気に入りはメスの「ツン」でした。
上野公園にある隆盛像の横にいる犬はツンとされていますが、実際のツンは洋犬でメスだったにもかかわらず、銅像を作るときに犬種を確認出来ず、薩摩犬をモデルに作成したと言われています。
また、戦争にも数頭の愛犬を連れて行きましたが、自身が自決する際にはすべての愛犬の首輪を外して逃がしたと言われています。
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まとめ
江戸城無血開城に尽力し、明治維新に大きく影響を与えた西郷隆盛。
その最期は死を覚悟し、自決するというまさに武士道の死生観ですね。
最期に別府晋介に放った「もうここらでよか」という一言に、隆盛の志半ばで諦めなければいけないやるせなさがこもっているなと感じます。
もし隆盛がもう少し長く生きていれば、明治維新後の日本はどうなっていたのだろうと想像が膨らみますね。
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