幕末から明治維新へと導き、日本政府の初代の内閣総理大臣として知られる「伊藤博文」。
旧千円札に描かれたこともある明治を代表する偉人ですが、伊藤博文はどのような最後を迎え、言葉を残していったのでしょうか。
名言や逸話・エピソードもあわせてご紹介します。
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目次
伊藤博文の辞世の句や最後の言葉の意味
出典:Wikipedia/伊藤博文
博文は、ハルビンにて朝鮮独立運動家の安重根によって暗殺されるという最期を迎えています。
その前日に詠んだとされている漢詩と、最期の言葉もあわせてご紹介します。
暗殺の前日に詠んだ辞世の句
万里平原、南満州
風光闊遠、一天の秋
当年戦跡、余憤を留む、
更に行人をして暗愁牽かしむ
眺めは遠くまで広がり、空全体がまさに秋のようだ。
この年になっても戦場の跡はまだ収まにらない怒りをとどめている。
それがいっそう旅人を人知れぬ憂いにとらわれさせるのだ。
博文は、満州・朝鮮問題についてロシア蔵相・ココツェフと会談するためにハルビン駅へと向かったのでした。
列車のなかで2人は20分ほど会談したのち、列車を降りて博文はホームに並ぶロシアの要人と握手を交わします。
その時、3発の銃弾が博文に発せられました。
結果的にこの句が辞世の句となりましたが、博文自身も翌日に暗殺されることになるとは思いもしなかったことでしょう。
最後の言葉
ハルビン駅に降り立った暗殺直前の伊藤博文:Wikipedia参照
博文は自分が撃たれた時、「誰が撃ったのか」と叫んだそうです。
息を引き取る前に側近たちと言葉を交わしたそうですが、その中で自分を撃ったのが朝鮮の人民だと知ると、「俺を撃つなんて、馬鹿なやつだ」と呟きました。
実際、博文の暗殺後に韓国併合が行われたので、安重根のような独立派の思惑と反する結果を招きました。
博文は、死の直前「誰か他に撃たれたか」と聞き、森秘書官が撃たれたことを知ると「森もやられたか・・・」と呟いたと言われています。
これが博文の最後の言葉になりました。
伊藤博文の名言の意味を解説
偉そうな人が偉いわけではない
大いに屈する人を恐れよ、いかに剛にみゆるとも、
言動に余裕と味のない人は大事を成すに足らぬ
いくら偉そうにしていても言動に余裕がなく、自分を持っていない人は大事を成すことができない。
すごく仕事ができる人や実力を持っている人の方が腰が低い。
偉ぶっていたり、大口をたたく人ほど口だけで何も成し遂げない・・・
なんてことを実生活で感じる方も多いのではないでしょうか。
何か結果を出すことができても、それに驕らず誰に対しても謙虚な姿勢を忘れずに居たいものです。
本当の愛国心とは何か
本当の愛国心とか勇気とかいうものは、
肩をそびやかしたり、目を怒らしたりするようなものではない
肩をいからせて偉そうにすることでも、いかめしくすることでもない
この言葉は、日清戦争後に語られたとされています。
日清戦争に勝利した日本国民は、大国である清に勝ったとかなり気持ちが大きくなっていたようです。
しかし博文はいい気になって、威張って歩くのが愛国心ではないと伝えたかったのでしょう。
日本は世界に比べて治安も良く、経済的にも発展していて先進国とされている国家です。
ですがそれを偉そうにひけらかしたりすることは愛国心とは言えないですよね。
自分の生まれ育った場所を大切にし、誇りに思って守っていこうという気持ちが大切ですね。
歴史はここから始まる
われわれに歴史は無い。
我々の歴史は、今ここからはじまる
博文は自分が歴史を作ってやる、という思いで政務にあたっていたのでしょうか。
本当に初の内閣総理大臣に就任し、日本の近代化を推し進めた博文はまさに歴史を作った人物と言えるでしょう。
伊藤博文の逸話・エピソード
衣食住にはあまり興味を示さずこだわりがなかった博文ですが、「金も家もいらない。ただ女遊びさえ出来ればいい。」と語るほど女好きだったそうです。
そんな女好きエピソードを紹介します。
あだ名は「ほうき」
博文のあだ名は「ほうき」だったそうですが、その理由はなんでしょうか。
当時から女好きで女遊びが激しかったことから、”女性が掃いて捨てるほどいる“ということからほうきとあだ名がついたようです。
博文自身も、1,000人くらいの女性と関係を持ったと豪語していたようで自他ともに認める女好きでした。
芸者遊びが大好き
博文の芸者遊びについてのエピソードは樋田千穂の著書「新橋生活四十年」などに記載されています。
その中から3つほどご紹介します
・同時に複数の芸者と関係を継続。1人の芸者と情事を済ませるともう1人の芸者を呼
んで、3人で川の字になって寝る。
・40度の高熱にうなされても、両脇に芸者をたずさえる。
・日清戦争の講和交渉中、清の代表・李鴻章が攻撃される事件が発生するも、その知ら せを受けたときも芸者と一緒にいた。
これだけ見てもいかに博文が芸者遊びが好きだったのかわかりますね。
これが現代の政治家だとしたら、一発でアウト。批判殺到ものでしょう。
明治天皇からも注意される
上記でご紹介したようなエピソードは、当時の人々も承知の事実だったため、いつしか明治天皇の耳にも入ってしまいました。
明治天皇から直々に「少し慎んではどうだ」と注意を受けます。
それに対し、「公の芸者たちを公然に呼ぶまでです」と答えたそうです。
こそこそ隠れて遊んでいるのではなく、堂々とやっているのだ。という反論ですが、ここまでくると明治天皇も呆れて困っていたようです。
まとめ
ハルビンにて朝鮮の青年に暗殺されるという最後を迎えた伊藤博文。
博文はかねてから「自分は畳の上では満足な死にかたはできぬ」と語っていたそうです。
自身の最後には何を思ったのでしょうか。
しかし明治天皇にまで呆れられる女遊びの激しさは、現代では考えられない政治家の姿ですよね。
それでも国民からの支持を得られたのは、博文の手腕と人柄があったからかもしれません。
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